ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

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山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

11"11【第1部】志1わが青春のケイセン講堂ケイセン講堂 かつて天才少女ヴァイオリニストとして、ヨーロッパ人の心を奪った美貌の諏訪根自子が、戦後帰国、山口市のケイセン講堂で演奏したのは、1948年の春だった。ケイセン講堂とは、山口大学経済学部の前身、山口経済専門学校(山口高商)の講堂のことだ。独立した瀟洒なこの建物は、かなり長期にわたり山口市の公会堂の役目をはたした。 戦後、帰国した諏訪根自子が、ナチスのゲッベルスから贈られたと噂されるいわくつきの名器ストラディヴァリウスで奏でたそのときの曲が何であったかを僕は知らない。その演奏会場への入場を拒絶されたからである。 山口市駐屯の占領軍主催によるこのリサイタルの聴衆の大半は碧眼の軍人であった。よれよれになった旧日本軍の軍服をまとってうっそりとあらわれた復員兵の僕が、受付で「駄目だ」と胸を突かれたときの悲哀と敗戦国民の屈辱を忘れ得ないが、ケイセン講堂の入口に整列して出迎える占領軍高級将校たちと鷹揚に握手をかわし、颯爽と中に消えていった若い日本人女性の姿が、僕の脳裏にあざやかに焼きついた。 戦争の世紀初頭の1925年、諏訪根自子より3年遅れて、彼女とは月とスッポン違いの境遇に生まれた僕の運命は、いわば当然のごとく軍国少年としての出発だった。日中戦争が始まったのは小学5年生のときであり、旧制の県立宇部工業学校機械科を卒業して、「赤トンボ」の愛称で知られる海軍93式中間練習機を作っていた東京の日立航空機株式会社羽田工場に入社したのは、太平洋戦争勃発の翌年だった。"