ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

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山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

13"13【第1部】志1わが青春のケイセン講堂1946年で、当時の山口高等商業学校の学生が、終戦直後の殺伐とした空気の中で始めた文化運動が映画鑑賞の若葉会だった。 映画館にも劣らない映写装置が高商時代からの講堂には残されており、映写技師もまだ庶務課に在職していた。入手困難だったアーク・カーボンを探し出し、フィルムは大阪の配給会社からの提供にこぎつけて、経専のちには山口大学、市内の高校生を中心とする会員制でスタートした。アメリカ映画は貸出しが禁止されていたので、主としてフランス映画と日本映画を上映した。組織も定着して、上映日には講堂が満員になる盛況だった。僕にとってこのケイセン講堂は、入学式の会場、さらにはあの諏訪根自子リサイタル以来、大げさに言えば自分の運命を変えた記念すべき劇場だったのだ。後年に至っても鑑賞の機会がなかったコクトーの『賭けはなされた』や、デュヴィヴィエの『我等の仲間』などフランスの名画を観たのはこの若葉会であった。(その後、僕は映画『我等の仲間』を翻案した同じ題名の短篇を「小説新潮」1998年1月号に書いている)大学祭の演劇パンフレットより(1951年) 僕ら「年寄り組」は教室で教官の講義を聴くことに喜びを感じていた。一言半句も聴きのがすまいと貪婪なまでにノオトした。それが親の仕送りでのんびり“遊学”している者たちとの違いであった。文字通り乾いた砂地に染み入るように講義の内容は僕らの脳髄を充たしていったのだ。物書きを業とするようになって、ソビエト連邦に取材旅行したとき(『不逞の魂』新潮社刊)国土の至るところで幾何学模様の野外彫刻を見て帰ってきた。間もなくソ連崩壊の報に接し、すぐさま僕はK先生から聴いたヴォリンゲルの『抽象と感情移入』にある空間恐怖説を思い出した。崩壊の危機を感知したロシア人の深層心理とあの幾何学模様の野外彫刻をむすびつけたエッセイを新聞に書いたものだった。 「教養とは連想の拡大である」とは、たしか小林秀雄氏のことばだが、僕にとって連想拡大の原"