ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

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山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

14"14点はまさしく山口大学だった。いつごろからか国立大学を入試の期日によって一期校、二期校と格付けするようになった。旧帝国大学クラスが一期校で、山口大学は二期校だった。官僚として出世したい者は東大に行けばよい。そうでなければ要するに大学はどこでもよいのである。 僕は学歴、門閥を問わぬ文学の道に入って、自分の好きな方向をめざし、あまり励みもせず、怠けもせず、楽しんで刻苦した。そして一応の関門を突破した。直木賞は芥川賞にくらべれば二流だが、「それでいいのだ!」。これは赤塚不二夫のマンガ『天才バカボン』のおやじのセリフだが、 Es ist gut! は、カントのダイイング・メッセージだとは『純粋理性批判』を講じたO先生が雑談で教えてくれた出色の名台詞で、僕の第二座右銘である。 ところで「卒業す学の鉄鎖の重かりしよ」とは、中村草田男が詠んだ句だが、僕は草田男の句集にこの作品を見つけたとき、のしかかってくる学業の負担とは別に、なにか学生に覆いかぶさるかび臭い重圧が漂っていて、軽い脅えを感じさせるものが大学にあったことを思い出した。「学の鉄鎖」とは、あるいはそういうものを表現しているのだと理解した。尤も草田男が出たのは旧制の東京帝国大学だから、地方の新制大学とは比ぶべくもない“象牙の塔”の質量があるのだろうが、わが山口大学にも封建時代をふくめた藩学数百年の蛍雪で艶光りするそれなりに重厚な個性を帯びた「学の鉄鎖」は残存し得た。 文久3年(1863)4月藩校明倫館は、萩藩が本拠を幕府に無断で山口に遷す藩政大改革と前後して、事実上山口に移し、教授陣もそれに同行した。山口に早くから教場を拓いた上田鳳陽の山口講習堂(山口講堂改称)と三田尻講習堂を明倫館の直轄としたのは、萩藩主が山口に居館を遷す4年前の1860年11月のことだが、それは大老井伊直弼暗殺後にわかに幕府への対抗姿勢を藩があらわにした時期であった。 5代藩主吉元の改革政策によって享保4年(1719)米沢藩の興譲館と並び、全国にさきがけて創設された伝統の藩校明倫館が、山口の新天地にあらためて文教の中心を据えたのだ。上田鳳陽は藩学中興の祖ということもできる。 さて、僕が入学した当時の学長は地球物理学の泰斗として国際的に名を馳せる松山基範先生だった。教育学部長は岩波書店から大冊『吉田松陰』を出した玖村敏雄先生だったが、この人から吉田松陰の講義を受ける機会はついになかった。残念というほかはない。 当時、文理学部には中国文学の吉川幸次郎先生や中世史の福尾猛市郎先生もおられたがこれも受講は逸した。しかし師とすべき人はかならずしも著名な人物である必要はないのだ。問題は学ぶ側にある。学んでいかに自分のものを創り出し、いかに連想を拡大するかだろう。しかしながらその後、維新発祥の地とされる山口県の山口大学に、維新史乃至は吉田松陰研究の国内最高の権威とされる学者が定着しないのは不思議ともいうべく、これはひとつの課題である。 最後に思い出にのこる先生を2人―。まず国文学のK先生は僕が行き詰まり筆を投げ出そうとしたとき、「無能無才にしてこの一筋につながる」という芭蕉『幻住庵記』の言葉を引用して叱咤、無気力な僕を立ち直らせてくれた恩師である。これが僕の第一座右銘だ。 もう1人はある個性的な教官の思い出である。教育学部の構内に「時雍」の2字を深く彫り込んだ石碑があった。僕らがその前に立って「どういう意味だろう」と話しあっているところへ通りかかった少し頭の禿げた教官らしい人が、「それはねえ、ジヨウと読む。平和ということ。書経にある言葉だ。コレ安ラカナリ、と訓読する。ええかね、分かったかね」と、言い捨てるようにして行ってしまった。 漢文『古文真宝』の講座が始まり、教室で待っていると現れたM助教授がその人だった。僕らは指定された教科書を用意していたが、先生はそれを手にしていない。先秦以後宋までの詩文時雍碑"