ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

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山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

17"17【第1部】志2創基200周年、「志」をたどる瑠璃光寺五重塔「山口講堂跡」記念碑山口講堂の扁額山口講堂の蔵書『詩経集註』山口講堂の講堂蔵書印1すべてのはじまり、「山口講堂」上田鳳陽、学問所を発起 山口に生まれた萩藩士・上田鳳陽(茂右衛門)は、寛政12(1800)年11月、萩に遊学して藩校明倫館に入った。学頭・繁澤規世に師事して、9年の長きにわたり在学し、儒学、国学をおさめる。 文化6(1809)年11月に明倫館での修学を終えた鳳陽は、山口に帰り諸士の教育にあたったが、当時の山口には学問所がなく、書籍も乏しい。このため、鳳陽は学舎の建設を発起する。 文化12(1815)年2月、鳳陽は藩に対し、申し立てをおこなった。 「山口のまちに武芸の稽古場、馬場はあるものの、いまだに本格的な学問所がないため、自力でも学問所を開設したい」と、明倫館の学頭・中村九郎兵衛を通じて藩へ願い出たのである。 藩はこれを受け、建築のための用材を藩有林から伐採することを許可し、資銀を給付し、中村九郎兵衛に事業を援助させた。山口の豪商や周辺の豪農らの協力も相次ぎ、4月、山口の中河原に講堂が落成し、「山口講堂」と呼ばれることになった。"