ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

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山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

20"20上田鳳陽碑(左)と服部東陽碑(右)(山口市宮島町)2建学の祖上田鳳陽藩校明倫館で国学、儒学を学ぶ 山口講堂開設を発起した上田鳳陽とは、どんな人物だったのか。 明和6(1769)年、萩藩の下級藩士・宮崎猪兵衛在政の三男として生まれ、幼いころ、上田平右衛門清房の養子となる。 寛政12(1800)年11月、32歳で藩校明倫館に入学、文化6(1809)年まで在学し、儒学や国学を学んだ。修学中は、藩費生となり、3年の規定年数をこえて学んだ。 山口講堂を発起するのは、文化12年、鳳陽47歳のときである。藩への願書からは、藩にとって重要な地であった山口に、いまだ学問の環境がととのっていないことを深く憂える心情が読みとれる。 鳳陽は、講堂開設の働きを評価されて下級武士の身分から中級武士へと昇格し、研究に専念できるよう「儒役」という役職に引き上げられた。晩年まで学問・教育に熱意 講堂開設後は、かねて希望していた明倫館への再入学をはたし、1年間、国学関係の書籍(「大黒屋本」)を研究する。 このように国学に精通し、故事にも詳しかったことから、山口代官から委嘱されて、「山口宰判風土注進案」の編纂にあたった。数ある風土注進案のなかでも、「山口宰判風土注進案」は、その精細さから高く評価されている記録である。 嘉永6(1853)年、鳳陽は85歳でこの世を去った。年を重ねてなお、藩士の教導につとめ、晩年まで藩より昇格や増給を受けたという。鳳陽が、地方の文教開発に大きく貢献し、それを藩が高く評価していたことをあらわすものであろう。"