ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

ページ
22/306

このページは 山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年 の電子ブックに掲載されている22ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

22"22山口講習堂玄関(山口県鴻城高等学校に現存。鴻城義塾創設にあたり山口中学校より譲り受けた)3文武の総合学舎、「山口講習堂」へ「明倫館」の教育に準拠 学問所として出発した山口講堂だが、しだいに、剣術、槍術、馬術など、武芸の稽古場としても整備されていった。これは、文武の両面を奨励した萩藩の天保改革にも沿っている。 弘化2(1845)年、鳳陽は藩に願い出て、山口講堂を「山口講習堂」と改称し、山口における文武諸芸の稽古場にすることを許された。山口講堂の設立から30年、山口講習堂はここに、文武両道を学ぶ総合学舎へと発展をとげたのである。 山口やその近郊に住む諸士の子弟は、山口講習堂で学び、なかでも成績の優秀なものは萩の明倫館へ進学した。明治維新で活躍した井上馨もそのひとり。このように、山口講習堂は、藩校明倫館の支校的存在となり、藩の人材育成のかなめとして、重要な役割をになうことになった。 安政5(1858)年、明倫館助教の山県半蔵(宍戸_)が、学事を監督する「督学」として山口講習堂に派遣された。山県は、課目の改正などをおこなって、教育内容を明倫館に近づけたほか、教科書、書台などをととのえ、畳、壁、屋根を修繕して、施設を整備した。"