ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

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山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

24"244幕末動乱、「山口明倫館」と改称文教の中心は萩から山口へ 幕末期をむかえ、藩の情勢はしだいに緊迫したものとなってくる。 文久3(1863)年、攘夷決行に備えて藩庁が山口に移され、萩に代わり、山口が政治、軍事の中心になったのである。萩の明倫館の諸生も多くが山口へ移ったため、山口講習堂は、「山口明倫館」と改称し、藩の文教の中心となった。 ところが、翌元治元(1864)年、長州征伐のあおりを受け藩の中枢が萩に戻され、山口明倫館はいったん廃止となる。 その3か月後の慶応元(1865)年3月、藩主敬親は山口に戻り、山口明倫館は復興した。山口明倫館は、「文学寮」と「兵学寮」に分かれ、文学寮には、基礎教育を行う「小学舎」と、歴史編纂を行う「編輯局」が附属していた。文においては人材の輩出、武においては有能な士官の養成が第一義とされた。 戊辰戦争での軍事的手腕で知られる大村益次郎は、山口明倫館兵学寮の教授であった。山口の普門寺を宿舎として、諸士に歩・騎・砲の三兵学を教え、藩の軍政指導者としても活躍した。 山口明倫館文学寮国学や漢学を学ぶ■本学寮■漢学寮小学舎編輯局兵学寮洋式兵学を学ぶ■歩兵塾■騎兵塾■砲兵塾■三兵学科塾 (1866年~)"