ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

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山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

25"25【第1部】志2創基200周年、「志」をたどる幕末山口市街図(全体)(山口県文書館所蔵)5明倫館から「山口中学」へ洋学教育に重点 明治維新をむかえ、新政府は欧米風の学校教育の基礎づくりに乗りだした。 まず、明治3(1870)年、「大学規則」、「中小学規則」を定める。学校を大学、中学、小学の3種に分け、中央に大学を1校、各府藩県に中・小学をもうけることとした。 これを受けて、山口・萩の両明倫館はそれぞれ「山口中学」「萩中学」と改められ、三田尻講習堂や諸学校、郷校が「小学」となった。 山口・萩中学では、8歳から16歳までのものが、まず文学寮で学んだ。その後、身体の強健なものが選抜されて歩兵講習所で修業後、兵学寮、砲兵講習所のいずれかに進んだ。また、文学寮の終了者のなかから選抜されて、新設された「洋学寮」に進むものもいた。それぞれの修業年限は3年で、優秀なものを大学へと進ませた。 明治4(1871)年、歩兵講習所、兵学寮、砲兵講習所が陸軍局の管轄になり、山口中学には文学寮と洋学寮のみが残ることになった。軍事的色彩がなくなり、中学は普通教育の場に転換したのである。同年、廃藩置県により、山口中学は山口県の管轄になった。"