ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

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山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

28"28山口高等中学校全景(明治20年頃)8熱意実る!官立山口高等中学校の設置一貫した中等教育体系、ようやく実現 明治19(1886)年、「中学校令」が公布される。全国が5学区に分けられ、各学区に1校の高等中学校、すなわち、東京、仙台、京都、金沢、熊本の5校が設置された。 このとき、県当局と防長教育会は政府に請願して、山口中学高等科を「山口高等中学校」に改めた。ぜひとも、県内に高等教育機関をのこしたいとの思いが強かったからである。 ここに、小学校卒業から大学進学にいたるまで9年一貫制の教育体系がととのうこととなった。すなわち、4年間の尋常小学校卒業後、山口高等中学校予備門と呼ばれる5学校(山口・萩・豊浦・徳山・岩国)で4年、そのあと山口高等中学校に進み、予科3年、本科2年の勉強を終えて、大学へ進むという道筋である。 本科には一部(法・文系)、二部(理・工系)の学科を設置し、定員は各部40名(本科全体で80名)、予科が280名であった。 設立当時の職員は、校長以下教官13名と事務関係5名であった。生徒との師弟関係は親密で、昼食を同じ食堂でとり、食後にともに球技に興じる姿もみられた。ハウスクネヒトの意見書 さて、山口高等中学校の教育制度をみるうえで、興味深いひとつの資料がある。 当時、帝国大学の教育学教師であったドイツ人エミール・ハウスクネヒトがまとめた意見書「山口高等学校教則説明書・同附録」である。 井上馨と品川弥二郎に請われ、明治22(1889)年、山口高等中学校を視察したハウスクネヒトは、この意見書のなかで、ドイツのギムナジウム(大学準備のための9年制の中等学校)の制度にならうことを提言する。防長教育会もこれを信頼し、明治23(1890)年には、帝国大学でハウスクネヒトの教えを受けた谷本富を教授に任命し、理論の実施にそなえた。以後、山口高等中学校の経営は、ギムナジウムの制度をとりいれたものとして発展していった。『山口高等学校教則説明書』亀山公園から運動場を望む"