ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

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山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

33"33創基200周年、「志」をたどる2志【第1部】野球をする学生たち(「山口高等商業学校卒業アルバム」より)学友会報COLUMN山高の呼び名は3つ「山口高等学校」と呼ばれる学校は、時代とともに3校ある。ここに述べた、明治時代に高等中学校の後を受けて成立した官立山口高等学校を「旧旧山高」大正8年創立の官立山口高等学校を「旧制山高」戦後生まれた現在の県立高等学校を「山高」このように呼んで区別している。学友会の復興 山口高等中学校が山口高等学校に改称された明治27年は、日清戦争が起こった年であり、時代は軍事色を強めていた。そのため、体操教師として陸軍の予備将校が任用され、体操の授業はもっぱら兵式教練と行軍、発火演習にあてられた。 明治37(1904)年、日露戦争が開戦する。山口高等学校からは、教職員13名が召集され、うち2名が戦死、2名が負傷した。 その一方、高等中学時代にいったん廃止された学友会が復興。運動部の活躍が注目を集めた。明治32(1899)年2月11日、山口高等学校の運動部陸上遠足会が、山口~宮市(防府天満宮)間の約18kmを走破。当時の運動会では長距離走といっても1000m程度だったため、この快挙は「ジャパンタイムス」や「時事新報」などでとりあげられた。 野球部では、まちまちだったルールを整理して「野球規則」を制定、県内の各中学校に配り、野球大会を主催した。技術向上にも熱心で、ときには遠征試合をおこなった。特に熊本の第五高等学校とは数度にわたり対戦。善戦したが、ついに勝利は得られなかったようである。"