ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

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山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

35"35創基200周年、「志」をたどる2志【第1部】山口高等中学校時代を含めて三度校長を務めた河内信朝先生を讃え、昭和9年に銅像が建てられた。明治末頃の山口旧旧山高の終局 全国的に高等教育熱が高まりだした明治30年ころから、入学志願者が急増する。そのため文部省は、各高等学校の入学制度に統制を加えるようになった。 明治35(1902)年からは全国で共通選抜試験が実施され、合格者の志望と試験成績によって入学する学校が決められることになった。これにより、明治37年には、山口高等学校生徒中、県内出身者は20%足らずとなる。 山口県の教育振興を主旨として設立され、入学・授業料の両面で県内の子弟を優遇してきた防長教育会であったが、その方針が時代に合わなくなり、また、入学者の増加や物価高騰により経済的な負担に苦しむようになる。 明治38(1905)年、ついに学校経営を断念、経費をすべて国庫に移した。同年7月、最後の卒業式をおこない、山口高等中学校につらなる山口高等学校は19年にわたる歴史に幕をおろした。その後は、官立山口高等商業学校として引き継がれることになる。"