ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

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山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

42"42「昇格か廃校か」と書かれた旗を掲げ町内を行進する生徒たち山口経済専門学校門標大学昇格運動 ─ 幻の防長大学 大正9(1920)年に東京高商が大学に昇格した。その前々年に公布された「大学令」で単科大学が認められたためで、ほかにも神戸高商など5校の大学昇格案が報じられた。 この動きに山口高商生も鋭く反応し、同年11月、400名余りの生徒が亀山公園に集まり学生大会を開催、山口高商の大学昇格を期して、血判状に名前をつらね、山口町内を練り歩いた。さらに実行委員10名が決議文を携えて上京、有力者への協力要請もおこなった。 学校側も「商科大学に昇格し、法学部を併置して総合大学とする」という「防長大学設立趣意書」をまとめ、校長・教授が上京した。しかし結局、運動は実らなかった。研究科設置の承認を得たが、関東大震災に見舞われ、その財政難のあおりを受けて見送られてしまったのである。その後も運動を継続したが、ついに日の目をみることはなかった。学生生活 ─ 学友会と鳳陽寮 明治後期、山口高商への移行期に学友会を構成した部は、邦語講談会、英独講談会、剣術会、柔術会、ベースボール部、ローンテニス会の6部だった。大正期には、「商学研究会」が結成され、「商学研究雑誌」を発行、また、生徒の意見発表の場として、「山口高商新聞」も発行された。昭和期に入ると部は急速に増えて、学友会所属の部は23部(文化部6、運動部17)にのぼった。 旧旧山高のものを引き継いだ寄宿舎は、大正11(1922)年に「鳳陽寮」と名づけられた。昭和4(1929)年には5棟の寮舎と建物を新築、東中寮ではベッドが使用され、当時としては画期的だった。経済専門学校へと改称 昭和16(1941)年における卒業生の就職状況をみると、まず、就職率が高いのは、当然ながら、商業金融関係である。次いで鉱工業(経理や企業会計部門に採用されたと考えられる)で、三井、三菱、住友など財閥系企業や日産コンツェルン系列などの大企業が就職先となっている。また、南満州鉄道、朝鮮銀行、東洋拓殖などに採用され、外地へ赴任したものも多かった。進学先の上級学校は、九州帝国大学、東京商科大学、神戸商科大学などとなっている。 昭和19(1944)年、全国の高等商業学校、商科大学から、「商業」の呼称が消されることになり、山口高等商業学校は「山口経済専門学校」へと改称された。"