ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

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概要

山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

"5618医学教育のめばえ県立医学校の創設と廃止 防長における医学教育のはじまりは、文政6(1823)年にさかのぼる。 ドイツの医師シーボルトが長崎に着任したこの年、徳山藩では藩校「鳴鳳館」内に医学館を置いて医学講義をはじめた。天保10(1839)年、萩藩では大坂、江戸で蘭学をおさめた青木周弼が藩医となり、翌年設立された医学所で医学教育がおこなわれた。この医学所は「好生館」、「好生堂」と改称し、明倫館にうつされ、のち、山口好生堂と萩分館に分かれた。 明治維新を迎えると、医科学教育にも変化がもたらされる。 明治5(1872)年、県は医術試験「壬申考試」を施行、下関には赤間関医学校が開設される。一方、山口好生堂は「山口県立山口医院」と改称後、明治7(1874)年に三田尻に移され、山口県立華浦(はなうら)医学校となった。明治9(1876)年には赤間関医学校を統合するが、県の財政難のため私学化されたり、県立として再興されたりした末、明治16(1883)年、廃校となった。 明治42(1909)年、県内の医師たちにより、山口県医師会が設立されるが、医師養成機関を復活させるにはいたらなかった。華浦医学校の校舎と生徒(『山口大学医学部50周年記念誌』より)好生堂長屋門(『萩市史』より)"