ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

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山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

57"57創基200周年、「志」をたどる2志【第1部】冨田雅次校長創立当時の医専生山口医専の校章病理解剖実習室渡辺剛二山口県立医学専門学校旧校舎全景山口県立医学専門学校の創立 県立の医学校が明治期に廃止された後、再興がかなわぬまま、約60年が過ぎた昭和19(1944)年、宇部市下宮地(現在の北琴芝)に山口県立医学専門学校が設立された。 設立にあたっては、宇部興産株式会社会長で、県医師会会長でもあった渡辺剛二(渡辺祐策の次男)の尽力が大きい。設立資金250万円のうちの50万円を寄付し、県下の会社、個人、医師会等からも寄付を集めた。 初代校長には、台北帝国大学医学部教授だった冨田雅次が着任した。入学生約120名、教官は常勤・非常勤を合わせて約30名の小さな組織だったが、「昭和の松下村塾」となることをめざし、教授と学生が起居をともにして熱心な教育を実践した。 創立当初は戦時下であり、実習器具や参考書も十分ではなかったが、実験器具として備えられた顕微鏡は当時自慢のもので、空襲があるたびに奉安殿に格納したという。 昭和20(1945)年、長崎に原爆が投下されると、冨田校長以下、教授6名、助教授1名、学生18名がただちに長崎に赴き、救護、調査にあたった。"