ブックタイトル山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

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山口大学記念誌  「志」つなぎ伝える二百年

58"5819混迷から新しい時代へ学舎への復帰 戦争末期、深刻な労働力不足を補うため、全国で学徒が勤労動員された。山口県の各校でも、生徒たちは毎日のように集団勤労作業にかりだされ、河川の改修、築堤、農場開墾、工場作業などをおこなった。県外への派遣や軍隊への応召で学舎をはなれる生徒、教職員もあった。 昭和20(1945)年8月15日に終戦を迎えると、学徒動員や勤労動員で各地に散らばっていた学生がもどり、9月ころから徐々に授業が再開されていった。しかし食糧難のため、授業や試験がボイコットされることもあり、混乱は長く続いた。軍学校の学生や外地の専門学校から復員した学生など、さまざまな経歴のものが編入・転入学する一方、経済的事情などで、やむなく学窓を去るものもあった。 深刻な食糧難に対応するため、各校では、授業を繰り合わせては、あらゆるところを開墾し畑にしていた。昭和21(1946)年3月頃に旧制山高が運営していた農園は、じつに校舎内外と旧射撃場の2町6反(東京ドームの約半分の広さ)におよんだ。土曜日の午後には、多くの寮生がリュックを担いで、自宅へ食糧を取りにもどった。学校では夏休みを延長したり、「食糧休暇」を設けたりして、この食糧難をなんとかしのいでいた。山口経専の寮日誌「若き者は夢を持たねばならぬ」と新しい時代に生きる若者を激励するような一文も見られる。当時の開墾の様子学校でとれた芋を食べる学生"