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神田育也「「上手な」映画、『ジョーズ』の解説 ―撮影技術、コンティニュイティ編集、ナレーションの観点から―」

はじめに

 『ジョーズ』(1975)はスティーヴン・スピルバーグの劇場公開第2作にして、それまでの商業映画の常識を根底から覆した作品である。ホオジロザメが人を食い殺す。「一文で要約して売る」ことができる「ハイ・コンセプト」[1]なストーリーは、あらゆる観客層の心を鷲掴みにし、『イージー・ライダー』『真夜中のカーボーイ』に熱狂したヒッピーから『エクソシスト』『悪魔のいけにえ』に惚れ込んだホラーマニア、『タワーリング・インフェルノ』『エアポート’75』を気軽に楽しんだ家族連れまで、全米をサメの虜にさせた。
 封切り後、僅か2週間で製作費を回収した『ジョーズ』は、歴代興行収入1位だった『ゴッド・ファーザー』を抜き去り、興行収入が1億ドルを超えた初の作品となった(この数字は「ブロックバスター映画」の定義に用いられる基準となった)。『ジョーズ』がここまで大成功を果たしたのは、製作から配給までの革新的なマーケティング戦略にあった。プロデューサーのリチャード・ザナックとデヴィッド・ブラウンは、ピーター・ベンチリーの同名小説にヒットの可能性を感じ、出版前から映画化の権利を買い取った。2人は、全国ツアー販売に尽力し、結果的に760万冊の大ミリオンセラーを成し遂げた。それでは飽き足らず、さらにザナックとブラウンはさまざまなタイアップを企画し、Tシャツ、ビーチタオル、サメの歯ネックレス、果ては「ジョーベリーjawberry」味のアイスまで、あらゆる商品がサメとコラボ化された[2]
 映画自体のプロモーションも本気度が凄まじい。サメの大きな口がビキニ姿の女性を待ち構える、有名なポスターは、先の小説のブックカバーにも採用され、メディアミックス戦略が展開された。さらにTVでは、冒頭の襲撃を再編集したCMが、公開3日前からゴールデンタイムで放送された。その予算費は100万ドル。全米3ネットワークで劇場公開される地域を中心に、連日電波をジャックした[3]。当初『ジョーズ』のサメは、本物のホホジロザメが使用される予定だったが、準備段階でナショナル・ジオグラフィックの撮影監督2人が重傷を負ったため、作り物のサメに変更された。しかしユニバーサルはこのハプニングすらも利用した。機械仕掛けのサメの秘密を公開、ジャーナリストに製作スタッフとの200回超に及ぶインタビューの機会を提供し、これでもかと宣伝に勤しんだ[4]
 封切り公開された劇場数は464で、これは大型映画の配給にしては異例だった。もともと全国同時公開は、テスト試写で評判の悪かった映画やエクスプロイテーション映画が、短期間で荒稼ぎするための方式であった。しかし『ジョーズ』は閑散期だった夏休み期間を利用し、リゾート地を中心に一斉公開する戦略を取った(『ジョーズ』の成功以降、アメリカでは渾身の超大作映画を夏に公開することが慣例となった)。

この夏のブロックバスター映画は、大都市のスクリーンで公開された後、小都市やセカンドランの映画館でゆっくり広がるのではなかった。それはイベントであり、「必見の映画」というオーラを作り出すあらゆる広告がなされた[5]

 『ジョーズ』公開に向け、誰もが期待に胸を膨らませる。もはや一種のお祭り行事と化していた。
 さて『ジョーズ』以降の作品について、『映画をめぐる冒険』の中で村上春樹は、「スピルバーグはこのあと「上手な映画」から「自分自身の映画」へと方向を転じ、[—]純粋な意味でのサスペンスものを作らなくなった」[6]と語っている。この書籍が出版された1985年12月24日までに、日本で公開された『ジョーズ』以降の作品は、『未知との遭遇』『1941』『レイダース/失われた《アーク》聖櫃』『E.T.』『トワイライトゾーン/超次元の体験』(「真夜中の遊戯」)『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』であり、これらが村上春樹の「自分自身の映画」に該当すると考えて良いだろう。『激突!』や『続・激突!カージャック』の職人気質な映画とは異なり、確かに『ジョーズ』以降の作品は、「映画作家」スピルバーグが垣間見える映画である。実際「トラックとサメの監督」という、いかにも低予算監督なイメージを恐れていたスピルバーグは、『1941』で実験的なコメディに挑戦し、『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』でシリーズきっての残酷描写を織り交ぜ、少しずつ「単純な」娯楽・商業映画を離れようとしていた。描かれる内容も、家庭と社会の秩序を守る保安官像(『ジョーズ』)の代わりに、家庭崩壊(『未知との遭遇』『E.T.』)が顕著となり、両親の離婚を経験したスピルバーグの少年時代が、多かれ少なかれ「反映」された。そして決定的なことに、1985年、スピルバーグは黒人女性の不遇を描いた『カラー・パープル』で人種問題に取り組み始める[7]。『未知との遭遇』『レイダース/ 失われた《アーク》聖櫃』『E.T.』でアカデミー監督賞を逃した悔しさも関係していたことだろう。それまでの娯楽映画とは打って変わった作風に批評家からは「オスカー狙い」と皮肉られ、また白人男性監督が黒人女性を描くことに対し、『風と共に去りぬ』の過ちを繰り返していると非難された[8]。結局のところ『カラー・パープル』は監督賞ノミネートすらも逃したが、それでもスピルバーグは以降、人種問題をテーマにした映画(『シンドラーのリスト』『戦火の馬』『ウェスト・サイド・ストーリー』)を撮り続け、ユダヤ人である「自分自身」と向き合った。こうして振り返ってみれば、1985年の時点で既に、スピルバーグに「自分自身の映画」を嗅ぎ取った村上春樹は、かなり慧眼だったと言えるだろう。
 話を『ジョーズ』に戻そう。では「自分自身の映画」と対の存在である「上手な映画」とは、具体的に何を指すのか。村上春樹が『ジョーズ』について「この映画の魅力はなんといってもファースト・シーンからラスト・シーンまで終始乱れることのないあの確実にしてすさまじいビートの中にある」[9]と述べるように、それは滑らかで効率的なショットにあると言えるだろう。そこで本稿では、映画本編をより詳細に分析し、(1)撮影技術、(2)コンティニュイティ編集、(3)ナレーションの3点から『ジョーズ』の「上手」を考えてみたい。

(1)撮影技術

 『激突!』ではゴーカートにカメラを装着し、地面ギリギリの低アングルから疾走する車を撮影した。『続・激突!カージャック』では後部座席と補助席を繋ぐレールの上に、最新の小型パナフレックスカメラを設置し、車内での滑らかな移動撮影を可能にした。さらに『1941』では遠隔操作が可能なクレーン、通称ルーマ・クレーンを採用し、ミュージカルとドタバタコメディが展開されるダンスホールの空間を縦横無尽に切り取った[10]。こうした撮影技術に対するスピルバーグの探究は、『ジョーズ』でも存分に発揮されている。例えばサメによる2回目の襲撃のシークエンス。海水浴場でブロディが、初めてサメを目の当たりにするショットにおいて、スピルバーグは「めまい効果」を用いている。被写体の形はそのままに、背景が大きく歪んで見える、この撮影方法はヒッチコックの『めまい』から拝借したもので、ブロディの極度の心理状態が視覚的に表されている。またその直前、水着姿の老人がブロディに話しかけるショットでは、被写界深度の異なる「前景の老人」と「遠景の海」の両方に焦点が当たっている。これは「スプリットフィールド・ダイオプターレンズ」という、特殊なレンズを使ったトリック撮影である。焦点距離の異なるレンズを半分ずつ、1つのレンズにはめ込む。すると、異なる被写界深度が1つの画面に共存し、クロースアップとロングショットを同時に表現することが可能となる(その証拠に2つのレンズの境目は焦点が当たっていない)。「前景の老人」と話す傍ら「後景の海」にも気を払わなくてはならないブロディの注意散漫を描く上で、まさに適切な技術だろう。「めまい効果」と同様、ここでもスピルバーグは、技術単体に溺れることなく、物語と有機的に結びついたショットを作り上げていた。
 そして『ジョーズ』一番の発明といえば、何と言っても水上撮影を可能にした「ウォーター・ボックス」だろう。撮影監督のビル・バトラーが開発した、六面体の内一面だけが透明なこの箱は、『ジョーズ』に圧倒的なダイナミズムをもたらした[11]。ある時には1人目の犠牲者クリッシーの脚を水中から写し、またある時には海水浴の人々を海面上から捉え、擬似的なサメの視点を観客に体験させる。このウォーター・ボックスについて、モーリー・ハスケルは次のように語っている。

カメラは海面すれすれに設置され、サメは常に暗示されているが、その姿はほとんど見えない。この視覚的省略は、サメがどこにもいないが、どこにでもいるという、はるかに大きな威嚇と恐怖を生み出した[12]

 どこにもいないが、どこにでもいる。確かに映画では、サメの視点らしきショットは多数確認できるが、それを保証する別のショット、つまり、被害者たちがサメを見るショットはことごとく省略されている(水中檻での格闘シーンは典型である)。サメはそこに居るかもしれないし、居ないかもしれない。この絶え間ない恐怖心のため観客は、物語世界から「脱臼された」空間にサメを想像しなくてはならず、見えないサメに怯えることになる。
 めまい効果とスプリットフィールド・ダイオプターレンズ、ウォーター・ボックス。これら特殊な撮影技術は、物珍しいスタイルに溺れることなく、あくまで登場人物の心理を引き出すために効果的に用いられている。まさに、技術狂のスピルバーグならではの特徴だと言えるだろう。

(2)コンティニュイティ編集

 デヴィッド・ボードウェルはアメリカン・ニューシネマ以降の新しい編集様式を、①より早い編集、②焦点距離の二極化、③会話シーンでのクロースアップ撮影、④自由自在なカメラワークの4要素に見出し、まとめて「強度化されたコンティニュイティ編集intensified continuity」[13]と名付けた。強度化されたコンティニュイティ編集は、古典的ハリウッド映画の原則を踏まえながら、場合に応じ、それを脱構築する形で、映画の時間と空間をより柔軟かつ大胆に操作する。実際ボードウェルは、『ジョーズ』の2回目の襲撃を挙げている[14]。ブロディを撮影している最中に、カメラの前を人が横切り、画面全体を人陰で覆う。影で画面が見えなくなっている間、素早くカットが入り、より焦点距離の長いショットが挟み込まれる。すると、観客は拡大されたブロディの顔を、あたかもワンショットで撮影されたかのように錯覚し、正確な空間感覚を失う。ブロディの顔が徐々に大きくなるこのショットは、(1)技術と同様、サメが気がかりな登場人物の様子を効果的に表現しており、ここでも、スタイルと物語を有機的に組み合わせるスピルバーグの力量が確認できるだろう。
 スピルバーグはまた、ジェイムズ・マイナータが「ワイド・リバースwide reverse」と名付けたショット[15]によっても、ダイナミックな映画空間を作り出している。「ワイド・リバース」とは、古典的ハリウッド映画の鉄則であるショット=切り返しショットを独自に修正したもので、アクション軸上の両端から切り返しを行う、文字通り「ワイドな」ショットである。例えば2人の会話を撮影する際、古典的ハリウッド映画では、アクション軸(180度ライン)から20~30度ズレた位置から、役者の顔を撮影することが通例である。もう1人が会話を始めると、カメラは左右対称に飛び、これまた軸から20~30度ズレた位置から、別の役者の顔を撮影する。こうして撮ったショットを繋ぎ合わせれば、あたかも2人の役者がお互いを見ているように見え、映画内の空間に混乱が生じなくなる。これが古典的ハリウッド映画における、一般的な切り返しショットである。
 他方スピルバーグの「ワイド・リバース」は、20~30度傾けたショットではなく、アクション軸に沿って「0度」で切り返す。例えば『ジョーズ』のフェリーの場面。ここではシークエンス最後に、前のショットから180度離れた対岸からショットが撮られている[16]。また別のシーン、2回目の襲撃の冒頭では、①海に入る太った女性、②第二の犠牲者アレックス、③海沿いで遊ぶ犬と飼い主、④砂浜に座るブロディが、ある時は海側から、またある時は砂浜側からと、縦横無尽に撮影されている[17]。ここでも、180度ラインを無視したイレギュラーなカット割りがなされながら、しかし観客は空間に混乱することなく、ダイナミックな画面を体感することが可能になっている。このように「ワイド・リバース」は、「ナレーションのどの時点」でも使用できる「ほとんど360度の舞台美術のパースペクティヴ」を提供する点で有用である[18]。180度ひっくり返すカット割りは、「ある出来事のショットとそれを見つめる登場人物の反応ショット」でも似たようなことができる。だがワイド・リバースの場合、必ずしも視点ショットに依存する必要がない。ある程度自由なタイミングで、360度の物語空間をダイナミックに撮影することが可能になっている。
 一見便利な「ワイド・リバース」だが、それなりに条件も考えられる。それは「フェリーの進行方向」や「海岸と砂浜」のような、空間の方向性が明確なシチュエーションを必要とする点である。実際マイラータは『未知との遭遇』の浮き上がる車や『プライベート・ライアン』のノルマンディ上陸のシーンを例に挙げているが[19]、いずれの場合も「車両の進行方向」「海岸と砂浜」といった物語空間の方向性が予め確立された上で、初めてワイド・リバースが挿入されている。つまり言い換えるならば、ワイド・リバースでは、映画製作者側が任意に設定した180度ラインに加えて、物語空間を保証する「地理的な」180度ラインが必要なのである。アクション軸を超えて撮影してしまっても、もう1つ別のアクション軸が空間の統一感を補う。乗り物や人物、海岸と砂浜、追う人と追われる人の走る方向など、観客が空間のりかいに迷わないような「補助線」が設定されることで、初めてワイド・リバースが可能になるのだ[20]
 強度化されたコンティニュイティ編集にせよワイド・リバースにせよ、スピルバーグは古典的ハリウッド映画の鉄則に手を加えることで、自らの映画言語を作り上げていた。古典的ハリウッド映画との対立ではなく、あくまでも物語空間の連続性を強化するための延長線として編集を考える。そうすることで、スピルバーグは独自のスタイルを確立させていた。

 (3)ナレーション

 上記のダイナミックかつ滑らかな編集やミザンセヌに加え、バックランドはスピルバーグ作品の特徴として「ナレーション」を挙げている[21]。詳しい説明は割愛するが、彼は次の8つの物語戦略:1.制限された/全知のナレーション、2. 視点(焦点化)、3. 統語論的/範例的ナレーション、4. タイミング/ペース(デッドライン、土壇場の救出劇を含む)、5. 予想の誤解/逆転、6. 解決の遅延、7. 伏線・予兆、8. 画面内/画面外の空間と音の表現的な使用、を例示している。これら戦略の組み合わせを通じ、映画は意図的に観客から情報を隠蔽したり、効率的な語りをしたり、登場人物との情報量の差を生み出したりと、ナレーションを操作する。『ジョーズ』の場合を見てみよう。①2回目の襲撃の冒頭で、太った女性がサメの餌と言わんばかりに登場する(脚本でも「ふくよかなジェリーボール状の女性が海に飛び込む。大食漢のサメを満足させるには十分な量がある」と書かれている)。だがこの女性はミスリードに過ぎない。実際にサメの餌食に遭うのは、入江で海水浴を楽しむ男性であり、観客の予想を大きく裏切る語りが行われている。さらに続きのシーンも見てみよう。②湾内に侵入したサメが男性の脚を噛みちぎり、切断された脚が海中に沈む。側にいたマイケルは恐怖で気を失っており、住民たちに砂浜の方へと引きずり出される。カメラは胴体に繋がったマイケルの脚を捉え、彼が無事であることを間接的に示す。この時男性の死亡とマイケルの無事は「脚」を介し視覚的かつ効率的に表現され、無駄の無いナレーションが達成されている[22]
 バックランドの『ジョーズ』分析の中で、とりわけナレーションの技が光るのが、フェリーのシークエンスだろう[23]。市長ヴォーンと取り巻き、保安官ブロディが海開きの是非について、カーフェリーの上で話し合う様子が、102秒の長回しで撮影されている。まずスピルバーグは画面左1/4にブロディ、残り3/4の画面にヴォーンと取り巻きを配置し、「どうしても海を開きたい」市長サイドの優位性を示す。その後、取り巻きの1人である医師が、最初の犠牲者クリッシーの死因について見解を述べた後、画面奥へと退場する。するとブロディ、ヴォーン、残った取り巻きは画面手前へと移動し、さらに議論を白熱させる。残りの取り巻きが画面奥へと後退すると、ブロディとヴォーンがカメラ手前へと進み、ブロディはヴォーンに説得される。このシークエンスでは、海開きを巡る交渉が煮詰まり、最終的に双方が口裏を合わせていく過程が、流れるようなワンショットで撮影されている。バックランドの言葉を引用しよう。

静的な長回しだからと言ってすぐさま、カメラワークが非効率的であることを意味しない。むしろドラマチックな視覚的興味を保ちつつ、限られた空間でシーンを撮影するための効率的で経済的な方法であることを意味している[24]

 このようにスピルバーグは長回しを選択することで、無駄なカット割りによる冗長さを避け、合理的なナレーションを実現している。
 さらにサメの登場のさせ方にも、スピルバーグ流の工夫が見られる。実は『ジョーズ』の中で、背ビレが海の上を走るシーンは、2回目の襲撃と最後の闘いの数回に留まっている。シリーズ化も含め、その後B級、C級、トラッシュ映画と、立て続けに製作されたサメ映画の大半が、「背ビレ」を描いてきたことを考えれば、これはむしろ驚くべきことだろう。ではオリジナルの『ジョーズ』では、サメの登場をどのように演出してきたのか。それは「樽」にある。オルカ号に乗り込んだ船長クイント、保安官ブロディ、海洋学者クーパーは、ロープに樽を括り付けたモリをサメの胴体に突き刺す。サメが海中に隠れていても、海に浮かぶ樽が目印になる、という作戦である。だがこれはミスリードである。樽とサメはロープで繋がっているため、ロープの遊びの分、両者の間には若干の距離がある。したがってサメが姿を現すのは、常に樽から遠い地点であり、樽は痕跡の機能を全く果たしていない。ハスケルはP.O.Vから『ジョーズ』の恐怖を「どこにでもいるが、どこにもいない」と述べていたが、まったく同じ恐怖が樽にも当てはまるだろう。樽はサメの目印だが、サメはそこにはいない。インデックスと現実の場所が必ずしも一致しないことを利用し、『ジョーズ』はサメの居場所を欺いていた。
 このようにスピルバーグは、(1)技術、(2)コンティニュイティ編集、(3)ナレーション等を組み合わせ、ダイナミックな画面を構成していた。「上手な映画」とは流れるようなショット連鎖にある。それは映画作家の内面や社会的背景が「反映」されるような「自分自身の映画」とは対照的な、職人監督的なスタイルの問題である。「全編を通じ絶えず行われる一見小さな決断こそが、『ジョーズ』を平凡な映画以上のものにしている」[25]。『ジョーズ』は細部にわたるまで、数多くの「上手」で散りばめられた映画なのである。

【参考文献一覧】

Bordwell, David. 2002. “Intensified Continuity Visual Style in Contemporary American Film,” in Film Quarterly, no.3 (Spring, 55): 16-28.
Buckland, Warren. 2006. Directed by Steven Spielberg: Poetics of the Contemporary Hollywood Blockbuster. Lobdon: Bloomsbury Publishing.
−—−—−—−—2017. “Creating a Cliffhanger: Narration in The Lost World: Jurassic Park,” in A Companion to Steven Spielberg, edited by Nigel Morris, Chichester: Wiley Blackwell. 122-136.
Coladonato, Valerio. 2019. “Jaws,” in Steven Spielberg, a cura di Andrea Minuz. Venezia: Marsilio Editori. pp.42-55.
Haskell, Molly. 2017. Steven Spielberg: a life in films. New Haven: Yale University Press.
Kendrick, James. 2017. “Finding His Voice: Experimentation and Innovation in Duel, The Sugarland Express, and 1941,” in A Companion to Steven Spielberg, edited by Nigel Morris, Chichester: Wiley Blackwell. 103-121.
Mairata, James. 2018. Steven Spielberg: Style by Stealth. New York: Palgrave Macmillan.
Morris, Nigel. 2007. The Cinema of Steven Spielberg: empire of light. New York: Columbia University Press.
Turner, Graeme. 1999. Film as social practice. London: Routledge.
村上春樹・川本三郎、1985、『映画をめぐる冒険』講談社。


[1] Nigel Morris, The Cinema of Steven Spielberg: empire of light (New York: Columbia University Press, 2007), 45.
[2] Ibid., p.43. Cfr. Graeme Turner, Film as social practice (London: Routledge. 1999).
[3] Nigel Morris, op.cit., 44.
[4] Ibid.
[5] Molly Haskell, Steven Spielberg: a life in films (New Haven: Yale University Press, 2017), 64-5.
[6] 村上春樹・川本三郎、『映画をめぐる冒険』講談社、1985、158.
[7] 日本公開は1986年9月13日。
[8] Molly Haskell, op.cit., 112-4.
[9] 村上春樹・川本三郎、op.cit., 158.
[10] James Kendrick, “Finding His Voice: Experimentation and Innovation in Duel, The Sugarland Express, and 1941,” in A Companion to Steven Spielberg, ed. Nigel Morris (Chichester: Wiley Blackwell, 2017), 103-121.
[11] Warren Buckland, Directed by Steven Spielberg: Poetics of the Contemporary Hollywood Blockbuster (London: Bloomsbury Publishing, 2006), 89.
[12] Molly Haskell, op.cit., 61.
[13] David Bordwell, “Intensified Continuity Visual Style in Contemporary American Film,” in Film Quarterly, vol. 55, No.3 (Spring, 2002): 16-28.
[14] Ibid., p.18. ウォーレン・バックランドも「強度化されたコンティニュイティ編集」の4要素、とりわけ広角レンズと自由自在なカメラワークを、スピルバーグの特徴に挙げている。Warren Buckland, op.cit., 42.
[15] James Mairata,Steven Spielberg: Style by Stealth (New York: Palgrave Macmillan,2018).
[16] Ibid., 173-6.
[17] Ibid., 161-5.
[18] Ibid., 186.
[19] Ibid., 154-8, 165-8.
[20] 無論スピルバーグ以外にも、同様の事例は『駅馬車』の馬車、『イージー・ライダー』のバイク、『トップガン』の戦闘機など広く見られる。中でも小津は室内で360度カットを行った例外的存在である。
[21] Warren Buckland, “Creating a Cliffhanger: Narration in The Lost World: Jurassic Park,” in A Companion to Steven Spielberg,ed. Nigel Morris (Chichester: Wiley Blackwell, 2017), 122-136.
[22] Valerio Coladonato,“Jaws,” in Steven Spielberg, a cura di Andrea Minuz (Venezia: Marsilio Editori, 2019), 42-55.
[23] Warren Buckland, Directed by Steven Spielberg: Poetics of the Contemporary Hollywood Blockbuster , op.cit., 93-5.
[24] Ibid.
[25] Ibid., 87