神田育也 (京都大学大学院 人間・環境学研究科 博士2回生)
『ルートヴィヒ 神々の黄昏』について村上春樹は「ルキノ・ヴィスコンティの遺作である」[1]と述べているが、これは全くの事実誤認である。ヴィスコンティの遺作は『イノセント』であって、『ルートヴィヒ』ではない。バイエルンの歴史大作『ルートヴィヒ』とローマの愛憎劇『イノセント』ではかなりの隔たりがあり、ましてヴィスコンティは『ルーヴトヴィヒ』の後に、『家族の肖像』も撮影している。
一体なぜこのようなミスを村上春樹はしたのだろうか。以下では「単純な勘違い」に過ぎないであろうこの問題を、あえて「過大評価」し、『ルートヴィヒ』のコンテクストから、このミスの訳を検討してみたい。
70年代の日本では『地獄に堕ちた勇者ども』(1970年3月)、『ベニスに死す』(1971年10月)後、監督の代名詞とも言える「耽美主義」が受け、空前のヴィスコンティブームとなっていた。三島由紀夫や澁澤龍彦、少女漫画、やおい文化と、多種多様な界隈で「耽美な世界」が持て囃された[2]。その後1976年のヴィスコンティの死を皮切りに、『郵便配達員は二度ベルを鳴らす』(1979年5月)、『ベリッシマ』(1981年8月)、『熊座の淡き星影』(1982年11月)、『揺れる大地』(1990年1月)と、過去作品が次々と初公開され、80年代になってようやくヴィスコンティ映画を観る環境が整った。ロッセリーニ、フェリーニ、アントニオーニらの評価が日本である程度固まっていたのに対し、ヴィスコンティは公開すらままならない状況だったのである。
『ルートヴィヒ』もそうした特殊な日本受容の中で考えなくてはならない。『ルートヴィヒ』の日本公開は、イタリアの封切りから8年後、1980年11月であった。これは『ルートヴィヒ』後に製作された『家族の肖像』(1978年11月)や『イノセント』(1979年3月)よりも遅い公開であり、ヴィスコンティ作品の公開順を複雑にした。監督の死、ヴィスコンティブーム、初公開の遅れ。様々な要素が絡み合い、日本ではフィルモグラフィを無視した、アナクロニズムな受容となっていた。村上春樹が勘違いするのも無理ないだろう。彼自身はおろか、校閲係さえもこうした単純な映画情報の間違いに気が付かないほど、70-80年代の日本は、ヴィスコンティを一度に吸収し過ぎていた。
さらに『ルートヴィヒ』の作品自体にも、死の気配が迫っていた。ヴィスコンティ自身の病である。『ルートヴィヒ』撮影直後、血栓症で倒れたヴィスコンティは、2ヶ月間の休養を強いられることになった。だが「『ルートヴィヒ』には一番愛着がある」[3]と、本作に入れ込んでいたヴィスコンティは最後まで諦めなかった。まだ編集が残っている。妹イーダが待つ療養先のチェルノッビオまでムヴィオラを取り寄せ、編集作業に勤しんだ。こうして240分近くに及ぶ『ルートヴィヒ』が生まれることになったが、不幸は続いた。MGMと「3時間未満の上映時間」を契約していた映画会社メガフィルムが、監督の意向を無視し、173分の短縮版を公開したのである[4]。短縮版を「テレビコマーシャル」[5]と呪ったヴィスコンティだったが、身体のことを考えれば、映画会社と戦う気力は残されていなかった。
この72年の血栓症は、ヴィスコンティを語る上で欠かせない伝説であり、日本でも1980年のキネマ旬報『ルートヴィヒ』特集を中心に周知の事実となっていた。1972年の血栓症と1976年の死去。日本の観客は、これらの出来事を全て知った上で『ルートヴィヒ』を見たことになる。観客は驚いたことだろう。聞いた病状とは裏腹に、画面は容赦無いリアリズムで張り詰めていたからである。『揺れる大地』で同時録音のネオリアリズモを製作し、『山猫』では汗だくになりながら自然光に拘ったように、ヴィスコンティはキャリア当初からリアリズム志向が強かったが、『ルートヴィヒ』では本気度合いが増していた。本場ドイツの城でロケ撮影し、調度品はことごとく本物、戴冠式のマントに至っては裏地の素材にまで固執した[6]。いくらお金がかかっても構いやしない。豪華絢爛、めくるめく貴族の世界を、何一つ妥協を許さないショットが作り上げる。村上春樹が「運命」[7]と評したように、『ルートヴィヒ』は、ヴィスコンティが病に犯されながらも完成させた、まさに神懸かり的な作品であった。本作が遺作に見えたとしても不思議ではなかったはずである。『ルートヴィヒ』でヴィスコンティは一度死んだ。1976年の死去は二度目の死に過ぎなかった。
[1] 村上春樹・川本三郎『映画をめぐる冒険』講談社、1985、134-5。また本作を以下『ルートヴィヒ』と略記する。
[2] 石田美紀「日本におけるルキーノ・ヴィスコンティ 作品受容の独自性とその文化的影響」『映像学』75, 2005, 23-39。
[3] Gianni Rondolino, Luchino Visconti (Torino: UTET, 2008), 501.
[4] Ibid., 501-2.
[5] Ibid., 502.
[6] Alessandro Bencivenni, Luchino Visconti (Milano: Il Castro, 1995), 104.
[7] 村上春樹・川本三郎、op.cit., 135.