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池田真実子「「おかしな」モーツァルト―映画『アマデウス』のモーツァルト像とその行方―」

池田真実子(京都大学大学院人間・環境学研究科 博士課程)

「天才」と聞いて、どのような人物が思い浮かぶだろうか。一つのことに異常なほどに秀でていて、それまでの価値観など吹き飛ばしてしまうような人物。それでいて、それ以外のこと、社会的営みや私生活はめちゃくちゃで、時代にうまく適合できなくて——。このような天才像を具現しているのが、映画『アマデウス』に出てくるモーツァルトである。
 簡単にこの映画の基本情報をおさえておこう。映画『アマデウス』は、ミロス・フォアマンが監督した、1984年のアメリカ映画である。原作は、ピーター・シェーファーの同名の戯曲であり、シェーファーはこの映画の脚本にも携わっている。内容としては、18世紀後半のウィーンでのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(トム・ハルス)の人生を中心としており、映画ジャンルとしては伝記映画に分類される。ただし、モーツァルトの一人称の語りではなく、ウィーンの宮廷に長年仕えた音楽家アントニオ・サリエリ(F・マーリー・エイブラハム)による回想という設定となっている。
 さて、この映画に出てくるモーツァルトが、いろいろな意味で破天荒な天才である。音楽的才能に秀でていることは言うまでもない。頭のなかで完成している音楽を、推敲することなく楽譜に仕上げる。一度聴いただけ曲を覚え、さらに即興で変奏する——こうした、モーツァルトの優れた能力を示すエピソードが、映画の随所に散りばめられている。もちろん、彼の音楽それ自体の素晴らしさの表現も忘れられていない。彼の音楽や彼自身に向けられる拍手喝采。そしてモーツァルトの音楽は、彼に嫉妬心を燃やすサリエリさえも魅了する。他方で、音楽以外の点でも、モーツァルトはめちゃくちゃな人物として現れる。品のない高笑い、落ち着きのない身振り、下品なスラングの多用、傲慢さ、酒好き、パーティ好き、浪費。『アマデウス』のモーツァルトは、こうした、両極の突出した性質を有する人物として描かれている。さらに付け加えて言うならば、このモーツァルトとは対照的に、神に選ばれし音楽家であるために純潔と勤勉さ、謙虚さを神に捧げていたサリエリ、つまり音楽的才能と人間性の均衡を理想としていたサリエリが映画の語り手であることで、このめちゃくちゃな天才モーツァルトが、その語り手の理想とは程遠いものとしてますます強調され、現れることとなる。
 音楽的才能と、なにかにつけて突飛で下品な言動——早くも映画公開の翌年に、村上春樹はここに「モーツァルトという人間と彼の中に存在した稀有の才能のあいだに生ずるずれのおかしみ」という「この映画の根幹」を見ている[1]。放埒に生きる人間としての側面と、それにもかかわらず光り輝く才能という「ずれ」を内包する「おかしな」モーツァルト——村上の言葉を借りるのであれば、このように形容できる『アマデウス』のモーツァルト像は、映画公開当時から、それまでのモーツァルトという音楽家像への大打撃となったようである。モーツァルト研究の一部からは「この作曲家の品位を傷つけるような描写と見なされた部分」への非難の声が上がり[2]、この映画と史実をめぐる議論がなされた[3]。また、この「ずれ」を内包する斬新なモーツァルト像は、学術領域のみならず、オーストリアのミュージシャンであるファルコの楽曲「ロック・ミー・アマデウス」(1985年)など、その後のさまざまな文化的領域にも進出した[4]
 では、こうした状況を経由し、映画公開から30年をすでに過ぎ、40年近くが経つ今日、『アマデウス』のモーツァルト像はどうなったのか。2018年に大衆文化的領域での『アマデウス』受容を論じたマリー・ジョセフィーネ・ベネットは、そのアクチュアリティを指摘しており[5]、実際、この映画のモーツァルトは、史実をめぐる議論を軽々と飛び越え、今日のモーツァルト表象になおもその面影を残しているように思われる。
 日本では、たとえばNHK Eテレで放送されたアニメ『クラシカロイド』(第1シリーズ2016-2017年・藤田陽一監督、第2シリーズ2017-2018年・馬引圭監督)をここで挙げることができるだろう[6]。このアニメでは、「クラシカロイド」と呼ばれる人造人間となって現代に再来した西欧の音楽家たちが、自らの音楽を原曲とする「ムジーク」という力を発揮する。その音楽家の一人がモーツァルトである。アニメ公式ウェブサイトにて「奔放、幼稚、だが天才」[7]と紹介されるように、彼は遊戯的な言動を繰り返し、やや下品でもあるが、それでも優れた「ムジーク」を発動させる天才として登場する。ここでも付け加えて言うならば、ミュージシャンを夢見るものの「丘サーファーならぬ丘ミュージシャン状態のお調子者」[8]である平凡な高校生神楽奏助というキャラクターがいることで、奏助以上にふざけ、遊んでばかりのモーツァルトから卓越した「ムジーク」が湧き出るという「ずれ」が強調されている。
 映画『アマデウス』を観て、モーツァルトの「ずれ」に笑ったあとは——この「ずれ」は、それを受け入れられない語り手サリエリの自尊心を傷つけてしまうため、この笑いは痛みを伴うものでもある——、現在のなかにそのモーツァルト像の行方を探してみると、「ずれ」を内包する「おかしな」天才モーツァルトは、今なお意外と身近なところに見つかるかもしれない。


[1] 村上春樹・川本三郎『映画をめぐる冒険』講談社、1985年、242-243頁。
[2] Martina Viljoen and Nicol Viljoen: «Amadeus: A Vision of Musical Genius. In memoriam, Miloš Formann (†13 April 2018)», in: International Review of the Aesthetics and Sociology of Music, Vol. 49, No. 1 (June 2018), pp. 29-30.
[3] Marie Josephine Bennett: «Shamadeus? Reconstructing Mozart: The Continuing Impact of Amadeus and Myths on Mozart Reception», in: Celia Lam, Jackie Raphael and Millicent Weber (ed.): Disassembling the Celebrity Figure. Credibility and Incredible, Leiden, Koninklijke Brill, 2018, pp. 227-230. 日本における映画『アマデウス』の衝撃に関しては、以下を参照。海老澤敏「日本のモーツァルト受容 その史的展望と生誕二百五十年祝年をめぐって」樋口隆一編著『進化するモーツァルト』春秋社、2007年、94-96頁。
[4] Bennett: 2018, pp. 230-240. 上記論文において、著者ベネットがしばしば拠っているのは次の先行研究。Ray Morton: Music on Film: Amadeus, Milwaukee, Limelight Editions, 2011.
[5] Bennett: 2018, p. 240. ここでベネットは「人間モーツァルトの私たちの理解の多くは、彼の人生や音楽に関する証明された事実だけではなく、少なくとも幾分かは、神話の文化的力や継続する『アマデウス』の人気を経て生じているようである」と結論づけている。
[6] 実際、『クラシカロイド』第1シリーズを監督した藤田陽一は、以下のインタビューにおいて、本アニメ制作の「とっかかり」として映画『アマデウス』のモーツァルトを挙げている。ウェブサイト「クリエイターズ・セレクション」、藤田陽一インタビュー、取材・構成:氷川竜介、https://www.b-ch.com/contents/feat_creators_selection/backnumber/v41/index.html(2022年9月30日閲覧)。
[7] アニメ『クラシカロイド』公式ウェブサイト、キャラクター紹介ページ、http://www.classicaloid.net/character/(2022年9月30日閲覧)。
[8] 同上。