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國永孟「スターの存在と、映画のスタイルー『若草の頃』(1944年)における演出ー」


國永 孟(京都大学大学院人間・環境学研究科 博士課程 キングス・カレッジ・ロンドン大学)

 黄金期のハリウッド映画を語る際にしばしば耳にする言葉に「スター・ヴィークル」というのがある。これは1930年代から40年代にかけて、メジャー・スタジオが自社で契約しているスターの人気を最大限に利用するため、小説や戯曲を映画化する権利を購入し、スターのイメージに沿うように脚本を練り上げたりする映画のことを指す。「スター・ヴィークル」として製作された映画は、物語だけでなく、カメラの前に映るすべてのものがスターの存在感を高めるために演出されていると言っても過言ではない。
 1944年、メジャー・スタジオのひとつMGMではジュディ・ガーランドを主役に迎えて、ミュージカル映画『若草の頃』(ヴィンセント・ミネリ監督)が製作・公開された。MGMミュージカルの代名詞アーサー・フリードがプロデューサーを務めたこの作品は、『オズの魔法使い』(1939年、ヴィクター・フレミング監督)や『青春一座』(1939年、バズビー・バークレー監督)などに出演し、子役時代から存在感を放っていたジュディ・ガーランドを映画製作の中心に据えた「スター・ヴィークル」である。「The Boy Next Door」、「The Trolley Song」、「Have Yourself a Merry Little Christmas」といったガーランドの代表曲が詰まっている同作の魅力について、村上春樹は「ジュディ・ガーランドの耳が本当に可愛い」と簡潔に述べている。
 ガーランドの身体の些細な部位に村上が言及したのは、単に彼がガーランドのファンだったからかもしれないが、それは観客に対して画面の細部に着目するよう促すヴィンセント・ミネリの巧みな演出の結果でもある。
 ところで、映画製作や映画研究の教則本を開くと「Show, don’t tell」(語らずに示せ)という規則がかなりの確率で載っている。これは登場人物たちの心理や人間関係を観客に伝える際、セリフに頼るのではなく、フレーミングや小道具、ライティングなど、映画が備える視覚/聴覚的な要素を用いて表現するべきだ、という考え方だ。『若草の頃』は、このような製作規則を理解する上で最良の作品のうちのひとつである。
 同作について語るならば、映画のスタイルと意味について語らずにはいられない。ここでは、「Meet Me in St. Louis」と「The Boy Next Door」の2つのナンバーが流れるシークエンスに注目し、登場人物の心理を顕在的に表す演出について見てみよう。とりわけ「フレーム内フレーム」と呼ばれる演出方法に着目することで、なぜ村上がガーランドの耳に言及したのか分かるかもしれない。「フレーム内フレーム」とは、映画のスクリーンのフレームと、スクリーン内の建築物や構図を利用して登場人物を囲い込む演出技法を指す。2つのシーンを検討することによって、映画全編で見られるフレームの反復的な使用と、空間の境界の設定が、『若草の頃』をガーランドの「スター・ヴィークル」たらしめ、アメリカ中産階級の家庭生活をノスタルジックかつ心の拠り所として描きだしているのではないかと提起したい。
 映画の物語は、1903年の夏から1904年の春にかけてアメリカのミズーリ州セントルイスに住むスミス一家の生活を描いている。セントルイスでは1904年に万国博覧会(The Louisiana Purchase Exposition)が開催されることになっており、街の人びとは万博の話で盛り上がっている。映画の冒頭、スミス家の人々はセントルイス万博のために実際に作曲された「Meet Me in St. Louis」を歌う。それによって父、母、祖父、長男、姉妹、メイドからなる一家が物語に導入される。驚くことに、このシークエンスを見るだけでこれ以降の登場人物同士の関係と物語の展開が一気に分かってしまうのだ。
 もう少し詳しくシークエンスを描写してみよう。まず、家の中でミセス・スミス(メアリー・アスター)と使用人のケイティ(マージョリー・メイン)が自家製のケチャップを作っている様子が示される。そこへ長男のロン(ヘンリー・ダニエルズ Jr.)が帰宅し、悪戯っぽくケチャップの味見をする。味が抜けていると文句を言うと、陽気に「Meet Me in St. Louis」を鼻歌で歌いはじめる。すると三女のアグネス(ジョーン・キャロル)が帰ってきて、台所を出たところで次に彼女がナンバーを歌い始める。そのまま2階へ上がり洗面所のドアを開けようとすると、中から髭剃りをしている祖父(ハリー・ダヴェンポート)の歌声が聞こえてくる。今度は彼が歌い始める番だ。祖父が廊下を出て寝室に入ると外から若者たちの歌声が聞こえてくる。窓から外を覗くと、次女のエスター(ジュディ・ガーランド)がちょうど馬車で帰宅するのが見える。このように、スミス家の人々によってナンバーが歌われる約2分間の間に、家族のほとんどがそれぞれ深みのあるキャラクターとして画面に現れる。
 ナンバーによって人と人とをつなぎ、画面に導入して物語世界を作り上げていく手法は見事としか言いようがない。この演出には元ネタがあり、『今晩は愛して頂戴ナ』(1932年、ルーベン・マムーリアン監督)において既に同様の技法が用いられている。だが、ミネリによる演出には無駄がない。ナンバーは家族の成員をひとつに結びつけると共に、ナンバーが歌われた際に家に居なかったトゥーティ(マーガレット・オブライエン)とミスター・スミス(レオン・エイムズ)は、スミス家の平和な日常に変化と家庭崩壊の危機をもたらす存在なのである。トゥーティの行動がエスターと隣人ジョン・トゥルーイット(トム・ドレイク)の恋路を左右しミスター・スミスの昇進によって家族はセントルイスに別れを告げなければならなくなる。長女のローズ(ルシル・ブレマー)がピアノを弾き、エスターが歌っているところにミスター・スミスが帰宅してナンバーが遮られてしまう様は、スミス家に待ち受けている家庭崩壊の危機を象徴している。
 また、「Meet Me in St. Louis」のシークエンスは単にスミス家の人々を一度に物語へと導入しただけではなく、祖父を除く家族のメンバーがそれぞれ外の世界から帰宅することで、心の拠り所となる家庭と、その外部に明白な境界が設定される。物質的な豊さにも溢れたスミス邸は、充足感に満ち、ノスタルジックな雰囲気すら纏っている。そうしたイメージをさらに強固なものにしているのが、随所で登場するフレームの存在だ。その重要性はオープニング・クレジットを見れば一目瞭然である。テクニカラーを用いた色彩豊かなクレジットは、キャストの名前が金のフレームで縁取られ、非常に豪華で凝っている。出演者の名前が流れ終わると、次に「1903年夏」の文字が表れ、物語世界の時間を設定する。同作で季節の移り変わりを示すために用いられるインタータイトルからは、あたかも絵本か家族アルバムの1ページのような印象を受ける。「1903年夏」の文字のすぐ上にはスミス家の写真が収められており、やがてカメラは縁取られた写真に向かって滑らかにトラック・インし、写真の世界へと入っていく。カメラのスムーズな動きによって観客は、大事にしまい込まれ、理想化された過去の思い出を郷愁と共に眺めるように促されている。映画の冒頭から、スクリーン上の何を見るべきなのか、フレームによって誘導されているのだ。
 同作で、フレームの使用、とくに「フレーム内フレーム」の使用が最大の効果を発揮しているのが、「The Boy Next Door」をエスターが歌うシークエンスである。「フレーム内フレーム」の使用によって、『若草の頃』は、戦争の影もなかった20世紀初頭のアメリカ中産階級の生活をノスタルジアのこもった眼差しで眺めるよう誘うだけでなく、ジョン・トゥルーイットへの恋心に身を焦がすエスターを演じるジュディ・ガーランドをフェティッシュ化するのだ。ほぼ全身が窓のフレーム内に収められることで、ナンバーを歌う彼女の姿はあたかも肖像画のような様相を呈し、ガーランドは観客に見つめられ、崇められる対象となる。村上が、物語内容ではなくガーランドの耳について言及したのは、こうした演出があったからではないだろうか。
 もう少し詳しくこのシークエンスを見てみよう。エスターは家に帰ってきた姉のローズから、隣人のジョン・トゥルーイットが庭に出ていると知らされる。すると彼女はすぐさま身なりを整え、ポーチへと飛び出していく。自然な様子を装うためにローズとわざとらしい会話をしながら、エスターはジョンのいる方向へさりげなくポーズを取る。だがジョンは、気づいてもらおうと一生懸命なエスターにまったく目もくれない。姉妹が諦めて家の中へ入ると、カメラは、「男の子よりも大切なものがあるの」と言って階段を駆け上がったローズを見つめるエスターを捉える。そこに「he Boy Next Door」のナンバーが流れ始め、エスターが窓の方を向いたところでショットが切り替わり、エスターのあゆみに合わせてカメラは後ろへ下がりながら開け放たれた窓を通り抜ける。するとスクリーン内に窓枠がインし、オフスクリーン右側にあるであろうトゥルーイット邸を見つめるエスターが、二重のフレームによって囲い込まれて映し出される。そうして彼女は、自分の存在に気づいてくれない隣人ジョンに対する切ない恋心をナンバーにのせて歌う。ここで使用されている「スクリーン内のフレーム」は、説話的な機能を持つとともに、スターを商品として売り出すための二重の機能を帯びている。
 そして窓のフレームは、ジョンへの特別な思いに押し潰されそうなエスターの心情を表すだけでなく、彼女にとって超えなければならない境界を作り出す働きをしてもいる。エスターはこのシークエンスで、自らフレーム内に入り込み、ジョンに自分の姿を認めてもらおうとする。彼女は映画全体を通して見られることに意識的で、自分の身なりをしきりに気にするナルシシズムのやや強い存在として描写される。だが、フレームによって囲い込まれた安心安全な家庭のなかにいる限り2人のロマンスは進展しない。エスターの勘違いでトゥルーイット邸に乗り込んで初めて関係が動き始めるのだ。
 フレームというひとつの要素を取り上げただけでも、こんなにも豊かな読みの可能性が広がる。『若草の頃』におけるミネリの演出を見ていると、スターの知名度を目一杯利用して、商品として最大限の利益を得るべく製作された「スター・ヴィークル」は、演出方法に至るまでスターの存在を主軸に成立していたことが分かるだろう。しかし、そうした演出は物語から全く独立しているわけではなく、登場人物の心理状態や人物同士の関係を、画面に映り、聴こえてくるものすべてを通じて表象した上で行われるのだ。これが黄金期のハリウッド映画である。