藤城 孝輔(岡山理科大学・講師)
『突撃』(Paths of Glory、1957年)はスタンリー・キューブリック監督の初期の傑作の一つとして知られている。第一次世界大戦中のフランス軍を舞台に、不条理な上層部の命令に翻弄される兵士たちの悲劇が描かれる。戦争の非人間性という主題は後年、若者が軍事訓練を通して戦争の道具にされていく過程を克明に描いたベトナム戦争映画『フルメタル・ジャケット』(Full Metal Jacket、スタンリー・キューブリック監督、1987年)でも繰り返されるものだ。村上春樹は1950年代後半において反戦映画というジャンル自体が珍しかったことを指摘したうえで、「『スパルタカス』に一脈通じるキューブリックの骨太な反骨精神が作品の土台骨を支えている」と評価している[1]。短い文のなかで「骨」という文字の入った表現を三度も反復することにより、作品の硬質な力強さや、感傷を排した死に対するドライな態度を的確に表現しているといえるだろう。
私は以前、ベルギーの首都ブリュッセルにある王立シネマテークで『突撃』を見たことがある。この映画をブリュッセルで鑑賞することになるとは何だか皮肉なものである。というのも、フランス軍を批判的に描いた本作は当初フランスとスイスで配給が自粛されるほどにフランス語圏での反発を招いた。ベルギーではどうにか公開にこぎつけたものの、ブリュッセルで激しい抗議運動が起こって公開が中断された。そして再公開されたさいにはフランス側の圧力により、
- Cet épisode de la guerre 1914-1918 retrace la folie de certains hommes pris dans son tourbillon. Il constitue un cas isolé en contraste total avec la vaillance historique de la vaste majorité des soldats français, champions de l’idéal de liberté que, de tous temps, le peuple français a fait sien.
[この1914から1918年の戦争についての物語は、旋風のなかにおかれた男たちの狂気を描いたものである。この狂気は特殊なケースであり、大多数のフランス兵たちの実際の勇敢さとは対照的なものである。勇敢な兵士たちはフランス国民が常に称揚してきた自由の概念を体現する存在である」
という文言が映画の冒頭に付されることとなったという[2]。もちろん、近年ではそんな当時の反応などケロリと忘れられ、キューブリックの『突撃』は不朽の名作としてベルギーを代表する映画の殿堂でリバイバル上映されるまでになったようだ。
ベルギーでの再公開時にフランス系の観客の反発を防ぐために表示された文章は、いわば苦肉の策であったといえるだろう(なので、私が見たときにはもちろんそんな文面は表示されなかった)。ちなみに、数年後の作品『博士の異常な愛情』(Dr. Strangelove or: How I Leaned to Stop Worrying and Love the Bomb、スタンリー・キューブリック監督、1964年)の冒頭においても、
- It is the stated position of the U.S. Air Force that their safeguards would prevent the occurrence of such events as are depicted in this film. Furthermore, it should be noted that none of the characters portrayed in this film are meant to represent any real persons living or dead.
[米国空軍の公式見解では、映画のなかで起こるような出来事は空軍の防衛措置によって未然に防ぐことができる。作中の登場人物が、存命か否かに関係なく現実の人間を表すものではない点にも注意が必要である]
という内容の一文がアメリカ空軍によって同様に挿入されることになる[3]。だが、映画の内容が現実とは無関係な例外的状況であることを強調するこれらの文面は、キューブリック作品の本質的な主題をわかりにくくしてしまう。というのも、彼の作品において繰り返し描かれるのは「当たり前という悪夢」であるからだ。キューブリックが題材とするのは、戦場や管理社会、政治ゲームの世界において「当たり前」のこととしてまかり通っている非人間性、あるいは父性に本質的に内在する暴力性である。それらが、兵士訓練場や冷戦、閉ざされた雪山といった特殊ではあるものの決してあり得なくはない状況の下におかれたときに狂気となって露呈する。その狂気の根源は決して現実とかけ離れたところにあるのではなく、社会システムや人間関係のなかに日常的に存在する。それはあまりにも当然のことと見なされているために誰も気にとめず、狂気や悪として認識されることもない。
『突撃』において主題となるのは、戦争という極限状態のもとでの狂気というよりも軍隊という組織に必然的に伴う不条理性である。第一次世界大戦におけるフランス軍とドイツ軍の戦闘を描きながらドイツ兵が一人として登場しないのはそのためである。前線で膠着状態が続くさなか、「蟻塚」(the Anthill)とあだ名されるドイツ軍の陣地を攻め落とせとの指令がミロー大将から主人公のダックス大佐に届けられる。それは誰の目にも明らかな自殺行為であり、軍の上層部もこの任務にあたってダックスの部隊はほぼ全滅するであろうと予測を立てている。しかし、それでも上官の命令に逆らうことは許されない。上官に対する兵士の服従、そして下される命令の絶対性は、軍隊において規律を守るために不可欠なものとしてどこの国の軍でも「当たり前」のこととして扱われる。キューブリックは命令の無謀さを誇張することで、その「当たり前」が実はきわめて非人間的で狂気すら孕みうるものであることを暴き出す。「命令が実行可能かどうかなんて兵士が判断するべきことではない。もし不可能な命令であったとすれば、塹壕の底に累々と横たわる彼らの死体のみがその唯一の証明となるだろう」(We can’t leave it up to the men to decide whether an order is possible or not. If it was impossible, the only proof of that would be their dead bodies lying about in the trenches.)というミローの言葉が示唆するように、兵士は思考する主体であることを許されず、単に命令を実行するだけの道具と見なされているのだ。
このような兵士の人間性の否定は、ミローが塹壕の内部を練り歩いてダックスの部隊に所属する兵士たちに声をかける場面でも顕著に表れる。ミローが歩みを進めるたびに軍隊の行進を連想させる太鼓の音が挿入され、彼の軍人らしさが戯画化されるこの場面において、ミローは「こんにちは、兵士よ」(Hello there, soldier.)、「健闘を祈る、兵士よ」(Good luck to you, soldier.)といった具合に「兵士」(soldier)という言葉を兵士たちに対する呼びかけに用いる。一兵卒の場合普通は「二等兵」(private)などのような階級で呼ばれるため、このように複数の人物に対して用いられる「兵士」という役割語の呼びかけは、それぞれの人物の個別性や人格を否定して一様に「兵士」という役柄に貶めるものである。ノイローゼに陥っている三人目の兵士の前で「ノイローゼなど存在しない」(There is no such thing as shell shock.)と言い切ることからも、ミローが兵士たちの内面に徹底的に無関心であることがうかがえる。そして、この一連の会話の繰り返しが生み出す違和感をさらに高めているのは、切れ目のないトラッキング・ショットの映像である。ホテルの廊下をひたすら三輪車で走り続ける子どもの様子をステディカムでとらえた『シャイニング』(The Shining、スタンリー・キューブリック監督、1980年)のショットと同様に、迷路のような塹壕の狭い通路をミローが歩くこの移動撮影のショットでは閉塞感が強調され、上下関係に縛られた軍隊の息苦しい環境が表現されている。
ミローが国家への忠誠という大義名分を掲げ、無謀な作戦を強行して兵士を死に追いやることもいとわない一方、愛国心は「ならず者の最後の隠れみの」(the last refuge of a scoundrel)というサミュエル・ジョンソンの言葉を引用するダックスは兵士たちに対する思いやりを持った知性あるリーダーとして描かれる。けれども、映画全編を通してダックスは無力である。蟻塚陥落が案の定失敗しただけでなく、自分の部隊に臆病者のレッテルを貼られ、見せしめとして隊の兵卒三人が選び出されて軍法会議ののちに処刑されることとなる。ダックスは三人の弁護を買って出るものの、はじめから判決が決まっている形だけの軍法会議に失望させられる。ダックスの無力さを視覚的に表現するうえで、象徴的な役割を担うのもまた移動撮影のショットである。軍法会議のシーンで最終弁論を展開しながら部屋の右端から左端へと行ったり来たりするダックスの姿をカメラは左右に移動するトラッキング・ショットで撮影する。人物の動きを執拗に追うこの撮影技法により、ダックスは動き回っているにもかかわらず常に画面の中心に固定された状態で提示される。いわばカメラが登場人物の自由な移動を封じることで、人物が身動きの取れない状態におかれていることを暗示しているのである。同じような手法は、失敗に終わった蟻塚攻略のシーンでダックスと彼の歩兵部隊が敵の陣地に進んでいくショットや、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(Les quatre cents coups、1959年)における有名な脱走シーンでも効果的に使用されている。
劇中の要所ごとに繰り返し見られるトラッキング・ショットは、『突撃』の原題 Paths of Glory(栄光の道)が意味するものを観客に考えさせずにはおかない。原題が指し示す複数形の「道」とは、出口のない塹壕の迷宮のことなのか? 無謀な死に向かって突撃を試みる歩兵部隊の前進や、部下の命を守ろうとするダックスの法廷でのいらだちのこもった歩みを意味するのか? あるいはシステムが求める大義なき生贄に選ばれた三人の兵士たちが処刑場へと向かう道なのか? これらの道に「栄光」という言葉が冠せられていることは辛辣な皮肉に他ならない。愛国的な言説において、これまで軍隊は国家を守る勇敢な存在として称えられ、栄光に浴してきた。軍の規律は兵士の高潔なる魂の表れと見なされ、兵士の死は英雄的行為として記憶される。しかし、そのような輝かしき栄光が隠蔽する醜さを映画は容赦なく晒し出す。硬直した上下関係は兵士たちから考える力を奪い、彼らの命は理不尽な命令の遂行のためにいとも容易く使い捨てられる。このように兵士たちを死に送り出すシステムは上層部の野心や私怨、権力争いによって突き動かされ、際限なく機能し続ける。
間違えてはならないのは、映画が描く醜さは決して一部の異常な人間だけが持つ例外的なものではないということだ。劇中での悪役は一応ミローであるが、彼も上から与えられた命令を自分の部下に回しているに過ぎない。ダックスとミローの対立だけが問題ではないのだと示すために、映画はミローと彼の上に位置するブルラール大将の関係、そしてダックスの部隊に属するロジェ中尉とその部下のパリス伍長の対立を盛り込んで、兵士が直面する非人間性や狂気が軍隊というシステムそのものの構造から生まれていることを重層的に描出する。そのため、物語の結末でダックスが苦々しく知ることになるように、ミローのような異常な個人を排除したところで根本的な問題は解決しない。映画が批判の対象としているのは、ミローのような常軌を逸した軍人でもなければフランス軍でもない。大多数の普通の国家が当たり前に有する軍隊のなかで当然のこととして見なされているシステムである。普通や当たり前であろうとすることほど恐ろしいことはない。
物語の後味の悪さにわずかな救いを与えるかのように、映画は兵士たちの人間性への信頼で締めくくられる。慰安所を舞台とする最後のシーンでは、のちにキューブリックの妻となるクリスティアーヌ・ハーランがドイツ人の女性民間人捕虜として登場し、ダックスの部隊の兵士たちの前で歌を披露するよう強要される。彼女が歌うのは「忠実な軽騎兵」(Der treue Husar)というドイツの民謡である。タイトルだけを一見すると命令を忠実に遂行する軍隊を称える歌にも見えるが、歌詞の内容はまったく異なる。外国に派遣された兵士のもとへ恋人が危篤であるとの知らせが故郷から届く。彼は任務も何もかも捨てて飛んで帰るものの、恋人は彼の腕のなかで死んでしまう。葬儀を取りしきったあとも、彼の悲しみは決して癒えることはない。恋人に対する想いに忠実な兵士の物語を歌いあげるこの民謡はドイツ語のわからない兵士たちの心さえも動かし、はじめは猥雑な歓声をあげていた一同は静かになって涙を流す。軍隊という非人間的な環境におかれながらも人間らしさを心にとどめる兵士たちの無垢な涙は、兵士を破壊と殺人の道具として利用するシステムに抵抗する力となるだろう。そんな希望を映画はほのかに示しているように見える。
[1] 村上春樹/川本三郎『映画をめぐる冒険』講談社、1985年、56頁。
[2] Lanneau, Catherine. «Quand la France surveillait les écrans belges: La réception en Belgique des Sentiers de la gloire de Stanley Kubrick». Histoire@Politique: Politique, culture, société, no. 8, 2009, https://www.cairn.info/revue-histoire-politique-2009-2-page-91.htm?contenu=plan.
[3] Krämer, Peter. Dr. Strangelove or: How I Leaned to Stop Worrying and Love the Bomb. British Film Institute, 2014, p. 17.