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森本光 『シャイニング』-村上春樹がみたスティーブン・キング原作の映画-

森本 光 (近畿大学・非常勤講師)

 スティーブン・キングはデビュー以来、おびただしい数のホラー小説を発表し続けている。映画化された作品は50本以上。誰もが認めるこの「ホラーの帝王」の存在を、村上春樹はいったいどのように考えているのか。また、1980年公開の映画『シャイニング』をほぼリアルタイムで見た村上春樹は、この作品にいかに反応したのか。
 次の三つの短い文章から考えてみよう。

・「スティーブン・キングの絶望と愛——良質の恐怖表現」(『村上春樹 雑文集』所収)[1]
・『シャイニング』の映画評(『太陽』1981年3月号)[2]
・「シャイニング」(『映画をめぐる冒険』所収)[3]

 まずは、ひとつ目の問題から。村上春樹はどうやら、同世代の作家としてキングに深いシンパシーを抱いているらしい。小説家としての腕を素直に認めたうえで、「年齢的に言っても僕と彼とは同じジェネレーションに属する」ということをくりかえし語っている。スティーブン・キングは1947年生まれで、村上春樹は1949年生まれ。ふたりの作家が属するのは、「十代の大半を六〇年代のドラスティックな価値転換の中で過し、カウンター・カルチャーを経験し、政治的反乱に身を置き、七〇年代に沈黙を強いられた世代である」[4]。そんな同時代を生きてきたキングの作品について語るとき、村上春樹がしばしば口にしているのは「哀しみ」や「絶望」というワードである。スティーブン・キングにおける「恐怖の質はひとことで言ってしまうなら『絶望』」なのであり、「六〇年代後半のニュー・カルチュア・ムーヴメントの熱い洗礼を受け、その挫折をも味わい、青春を終え、心の底に鬱積した矛盾や怒りや失望」を、キングは「恐怖小説」に託すことしかできなくなってしまったのだと、村上春樹は表現する[5]。 
 キングの小説『シャイニング』の第22章の冒頭には、1969年にリリースされたクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル「バッド・ムーン・ライジング」の以下のような歌詞が引用されている。

                I see a bad moon a-rising.
                I see trouble on the way.
                I see earthquakes and lightnin’.
                I see bad times today.
                Don’t go ’round tonight,
                It’s bound to take your life,
                There’s a bad moon on the rise.[6]

                いやな月がのぼるよ。
                よくないことがありそうだ。
                地震やかみなり。
                きょうはいやなことばかり。
                今夜はでかけちゃいけない、
                いのちにかかわるよ、
                ほら、いやな月がのぼるから。[7]

 このヒットナンバーの不吉な歌詞の引用は、小説内におけるジャック・トランスの狂気を、「不安」や「絶望」といった当時の社会の世相のコンテクストに位置づける役割を果たしている。音楽マニアの村上春樹が、キングの小説のこうした細部に注目したことは想像に難くない。生まれた国はちがえど、アメリカ文化というバックグラウンドを共有し、同じ時代を生き抜いてきたという意識があるからこそ、「僕には彼が恐怖と絶望というフィルターをとおしてしか自己を語り、愛を語ることのできない気持ちが痛いほどよくわかる」というのである[8]。 
 つづいて、ふたつ目の問題はどうか。文学作品の映画化ということについて、上記の短文で村上春樹が表明している態度は、きっぱりとしたものである。すなわち、「小説と映画は基本的には別物」という立場のようだ。映画『シャイニング』は興行的にも批評的にも成功をおさめ、監督のスタンリー・キューブリックと原作者であるスティーブン・キングの知名度を少なからず高めた作品なのだが、キングが映画版を気に入らなかったことはよく知られた話である。そのことについて、村上春樹は「映画化権を渡してしまえば原作者なんて床の間の掛け軸みたいなもので、誰も相手にしてくれない」としつつ、その質については「キングが言うほどこの映画の出来は悪くないし、怖さだってかなりのものである」と肯定的に評価している[9]。もっとも、前述のような時代性や、キングの原作にある「絶望」や「哀しみ」がキューブリックの『シャイニング』には「まるっきりない」ため、その点で物足りなさを感じてもいるようなのだが[10]。 
 それ以外の点で言えば、村上春樹による映画『シャイニング』評はそつのない議論だと思う。スタンリー・キューブリックによるホラー映画が、結局のところ「映像としての恐怖」を追求した「映画ゲーム」であり、(キングやその他のホラー小説/映画作家のような)より本質的な「哲学としての恐怖」ではないことを見抜きつつ、また「『恐怖映画だろうが娯楽映画だろうが、俺がちょっと本気を出せば、これくらいのものは作れるんだぜ』というあのキューブリック一流の嫌味」がどうしても好きになれないと前置きしながらも、「そんなものは途中からどこかに吹きとんでしまいそうなほどエキサイティングな映画」と賞賛している[11]。「音響、演技、セット、編集」といったあらゆる面を評価し、ジャック・ニコルソンのオーバー・アクションなパフォーマンスさえ、好意的に捉えたようだ。「ステディカム」というワードこそ登場しないものの、撮影監督をつとめたジョン・オルコットの名前を挙げつつ、「子供がやたらに長い廊下をベビー・カーで走っていくロー・アングルのカメラ・ワークも異様な緊迫感があった」と、この映画の技法的な面での卓越も見落としていない[12]。村上春樹は、映画評においてもその慧眼を発揮しているのである。


[1] 村上春樹『村上春樹 雑文集』、新潮文庫、2011年、310-315頁。村上自身の言葉にあるように、初出は1985年6月に北宋社から出た『モダンホラーとU.S.A——スティーブン・キングの研究読本』収録のエッセイである。
[2] 村上春樹「キューブリックの『シャイニング』は「恐怖」だけが輝いていた」、『太陽』、平凡社、1981年3月、170頁。
[3] 村上春樹/川本三郎『映画をめぐる冒険』、講談社、1985年、194頁。
[4] 『村上春樹 雑文集』、314頁。
[5] 『太陽』、170頁。
[6] King, Stephen. The Shining. Hodder, 1977, p. 218.
[7] スティーブン・キング『シャイニング』、深町眞理子訳、文春文庫、2008年、385頁。
[8] 『村上春樹 雑文集』、314-15頁。
[9] 『映画をめぐる冒険』、194頁。
[10] 『太陽』、170頁。
[11] 『太陽』、170頁。
[12] 『映画をめぐる冒険』、194頁。