竹下涼 (京都大学大学院 人間・環境学研究科 修士課程)
1.導入
リドリー・スコット監督作品『ブレードランナー』(1982年)、もはや言うまでもなく、近未来SFの金字塔である。フィリップ・K・ディックによる小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年)を原案としたこの映画は、SF文学の世界で花開いたサイバー・パンクの想像力をハード・ボイルドあるいはフィルム・ノワールといったハリウッドの古典文法に落とし込んだ、映像表現の精華と言える。おそらくは原作の小説よりも映画の方がいっそう広く深く受容されてきたのではないだろうか。村上春樹もまた「原作よりずっとよくまとまっていると考えている」ようだ[1]。実際、本作はまさしく画期的な映画であり、のちの近未来SFやサイバー・パンクの雛型となってきた。押井守によるアニメーション映画『攻殻機動隊』(1995年)も本作なくしてはありえなかっただろう。その登場とともに方々で話題となったゲーム作品『Detroit: Become Human』(2018年)や『サイバー・パンク2077』(2020年)もSF的サイバー・パンク的想像力によってもたらされた『ブレードランナー』の末裔とみなすことができる。影響はヴィジュアル・カルチャーにとどまらない。特に哲学思想の文脈では、ダナ・ハラウェイのサイボーグ・フェミニズムが有名であり、イタリアのポストモダン思想にもまたサイバー・パンクから受けた影響の痕跡が読み取れる[2]。高度に発達したテクノロジーと東アジア的な巨大都市、跋扈する犯罪と不安定なアイデンティティ、明るいネオンサインと昏い空、人間の没落とヒューマノイドの繁栄、あるいはその逆。さまざまに語られてきた本作だが、ここでは映画紹介という主旨に鑑みて、本作の舞台設定と魅力的な登場人物(レプリカント)たちに触れておきたい[3]。
2.昏くて明るい舞台
まず舞台設定である。時は2019年11月、場所はロサンジェルス。われわれにとっての近過去が、本作の現在、そしてそれが映画公開当時にとっての近未来というわけである。SFが描く未来社会によくあるように、本作の地球はもう滅びかけている。フィルム・ノワールにふさわしい何とも昏い世界である。映画の冒頭に映る重化学工業地帯、そこから立ち上る煙、やまない雨(おそらく酸性雨か何かだろう)、夜空を切り裂く落雷。この昏い都市風景と呼応するかのように、空に浮かぶ巨大な広告飛行船は地上の人間に訴えかけている。「新しい人生が外世界植民地であなたを待っています。機会と冒険に満ちた黄金の地で人生をやり直すチャンスです」。人類は衰退してゆく地球を捨てて明るい別の惑星へと移住する、宇宙植民の時代なのだ。しかし、人類の歴史を見れば明らかなように、「新しい人生」、「機会と冒険」といった華々しい美辞麗句によって飾り立てられたスローガンの裏には「抑圧」や「搾取」といった生々しい現実が書き込まれているものである。もちろん本作も例外ではない。終わりかけの未来社会が描く「黄金の地」に奴隷労働者として送られるのが、遺伝子工学によって産み出された人造人間「レプリカント」である。
3.レプリカント
レプリカントは極めて精巧に造られているので、一見するとほとんど人間と区別がつかない。人間と比較したときに際立つのは、労働に従事するよう設計されているために付与された、彼らレプリカントの超人的な身体能力と高度な知能である。けれども、そんなレプリカントたちによる叛逆を恐れた人間は、「安全装置」なるものをレプリカントの生産段階に仕込んだのだった。それが4年の耐用年数である。この極端に短い寿命は、まさしく反乱防止の「安全装置」として機能するとともに、4年ごとの買い替え需要を喚起するという消費社会のモデルにピッタリと適合する。レプリカントたちは、過酷な環境下で、ときに重労働者として、ときにセックス・ワーカーとして、使い果たされ消費され廃棄され解体される。また、彼らには過去と感情が欠如している。生まれながらに成人である彼らには思い出すべき記憶がない。そして感情もない。だが、年を増すごとにレプリカントたちには感情が芽生えてくる。劇中では、レプリカントには感情移入の能力が欠如しているとみなされている。しかし、実際には、彼らレプリカントたちは驚くほど感情豊かである。人間が恋するように、彼らも恋をする。それはレプリカント同士の場合もあれば、人間とレプリカントとの場合もある。実際、そうした描写は劇中でも描かれている。だからこそ悲劇は生まれる。人間とは〈違う〉ということを除いてほとんどすべてが〈同じ〉存在。けれども寿命はたったの4年。レプリカントはあたかも「凸面鏡」に映し出された人間の歪形となっている[4]。
4.地球に落ちた天使たち
奴隷として使役されるという、短く惨めな人生を運命づけられたレプリカントたち、だが彼らは人間に都合の良いように使われるだけではない。彼らの一部は人間に抵抗し、復讐するために地球に戻ってくる。本作のタイトル「ブレードランナー」は、そんな叛逆レプリカントを処理する職業を指しているようだ。わざわざ叛逆レプリカント専門の仕事があるくらいだから、そうした反乱は少なくないのだろう。そして本作では4体のレプリカントが、運命に逆らって落ちてくる。そのリーダーがロイ・バッティと名付けられたレプリカントである。自分の死が間近に迫っていることを悟るロイは、自身の造物主たる遺伝子工学者タイレルに会い、自らの身体に刻まれた4年という年限から逃れようと画策する。劇中で登場するやいなやロイは、英国の詩人ウィリアム・ブレイクによる『アメリカ 預言書』(1793年)の詩を変形引用することでもって自己紹介をはじめる。以下、引用である。
- 炎につつまれて天使たちが落ちてきた、オークの劫火に焼かれながら
彼らが降り立った岸辺に、そのとき雷鳴がとどろいた
ブレイクの原文では「天使たちが立ち上がった」(the Angels rose)とある。これをロイは「天使たちが落ちてきた」(the Angels fell)と言い換える。天使の名を冠する街ロサンジェルス(Los Angels)に降り立った機械人形、あるいは落ちてきた機械人形。彼は、天上から「地球に落ちてきた男」である。落雷とともに。ここには神に叛逆したという堕天使のイメージが重なる[5]。神の裁きによって落とされた聖書の天使たちと、神(=タイレル)を裁くために落ちてきたサイバー・パンクの天使たち(=レプリカント)は、奇妙に交差しながらすれ違う。もっとも、彼らレプリカントたちが復讐を誓う神というのは、ピラミッドのような建造物に住まう異教の神であるのだが。
5.やまない雨、泣き虫のレプリカントたち
劇中ではずっと雨が降っている。大気汚染による影響だろうか。道ゆく人々がさしているライトセーバーのように光る傘が印象的に映る。「しかしあんなに雨ばかり降ってたら水虫の人が増えるだろう」[6]。レプリカントたちはどうだろうか。人工的に造られた存在だから水虫にはならないのだろうか。それとも水虫になったとしても気にしないのだろうか。だって彼らに感情は無いのだから。こうした無感情な人工物という劇中の人物たちに共有されているレプリカントへの偏見はすぐに間違いだったと気づくことになる。なぜなら彼らは人間と同じように泣き虫でもあるからだ。劇中でも特に印象に残るのは、死の間際に流す彼らの涙である。背中を撃たれて事切れたゾーラ、自らが人間ではなくレプリカントであることを知ってしまったレイチェル。泣き虫、とは言わないまでも彼/彼女らの涙は本来ないはずの感情がまぎれもなくあるということを強く証言している。劇中のレプリカントたちはみな、われわれが人間性という言葉で理解しているような何かを伝えてはまた沈黙のうちに沈んでゆく。そこで表明されるのは、非人間的な者たちこそが人間的であったというパラドックスである。最後の証言はレプリカントたちのリーダー、ロイ・バッティに任せることにしよう。映画の終盤、死期を悟ったロイはわれわれにこう語る。
- おまえら人間には信じられないようなものをおれは見てきた……。オリオン座の近くで燃えた宇宙船、タンホイザー・ゲートのオーロラ。そういう思い出もやがて消える……。時が来れば。涙のように。雨のように……。
「その時が来た」。そう言い終えるとロイは眼を閉じてうなだれる。寿命が尽きたようだ。あいかわらず雨はやまない。落雷とともに落ちてきたサイバー・パンクの天使たち。彼らの炎はこの崇高なアイロニーによって鎮められる。もはや動かない彼の頬を伝うのは雨なのか涙なのか。
[1] 村上春樹・川本三郎『映画をめぐる冒険』講談社、1985年、225頁。
[2] イタリアにおけるサイバー・パンクについては以下を参照されたい。マリオ・ペルニオーラ『無機的なもののセックス・アピール』岡田温司・鯖江秀樹・蘆田裕史訳、平凡社、2012年; Roberto Terrosi, “La filosofia del postumano”, costa & nolan, Genova, 1997; ロベルト・テッロージ『イタリアン・セオリーの現在』柱本元彦訳、平凡社、2019年。
[3] 『ブレードランナー』についてはすでに多くの批評や研究がある。加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説』(筑摩書房、2004年)は、人間と機械のあいだで揺れ動くアイデンティティの錯乱といったよくあるテーマから、精密なショット分析、見る/見られるといった眼差しや視覚の問題、精神分析的読解や人種・ジェンダーにまつわる批評まで、幅広いトピックを扱っているため、是非とも参照されたい。
[4] 加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説』筑摩書房、2004年、52頁。
[5] 同書、81-82頁。
[6] 村上春樹・川本三郎『映画をめぐる冒険』講談社、1985年、225頁。