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奥藤 望実 チャイナタウン、あるいは不可視の結末

奥藤 望実 (京都大学・人間・環境学研究科 修士課程)

 映画において「衝撃的な結末」は、観客の日常への帰還を遅延させる。その遅延の間に映画は自身の印象を観客の脳裏に刻み込む。それは映画が取るある種の生存戦略とでも言うべきもので、『チャイナタウン(1974)』もそうした戦略を取った映画の一つである(そしてその試みはこれ以上ないほどの成功を収めている)。
 では、その「衝撃的な結末」はどのように描写されているのか。重要な点はそこに至るまでの描写の積み重ねを通して、この衝撃的な結末に極めてアイロニカルな含みがもたらされていることだろう。
 『チャイナタウン』は所謂「ネオ・ノワール」という映画ジャンルの傑作として有名な作品だ。ネオ・ノワールは、1940〜50年代に興盛を誇った「フィルム・ノワール」というジャンルの形式を懐古的に受け継ぎ、発展させたジャンルとして知られている。その意味で村上春樹による、本作に対する「懐古趣味的」という形容は的を射ている[1]。そのことは、往年のハリウッド映画へオマージュを捧げたかのような本作のオープニングクレジットのデザインを見れば明らかだろう。
 村上の言う通り、この映画におけるジョン・ヒューストンとロマン・ポランスキーの出演は極めて印象的だ[2]。ヒューストンはフィルム・ノワールの嚆矢として有名な『マルタの鷹(1941)』を監督したことで有名な巨匠であり、その意味で彼の出演はフィルム・ノワールというジャンルに自己言及的なこの映画の性質を象徴していると言える。
 一介の私立探偵が、浮気調査の依頼を進めていくうちに巨大な陰謀の存在を垣間見てしまい……という本作の物語展開もまた、まさしくフィルム・ノワールの王道と言えるだろう。
 映画は、男が妻の浮気現場を映した連続(盗撮)写真を次々とめくる映像から始まる。この次々とめくられる連続写真を見た観客はそこに原映画的なもの見出すのではないだろうか(事実、エドワード・マイブリッジが1878年に撮影した馬の連続写真は映画の祖先として、映画史において度々言及される)。 
 探偵である主人公は尾行という行為を通じて調査対象への窃視的な立場を確保する。尾行を通して、(正確に言えば、そこで使用される主人公の主観ショットを通して、主人公と観客が窃視的立場を共有しつつ同じものを見ることによって)主人公と観客の同一性が保たれる(言うまでもなく「映画」は観客に窃視的であることを強いるメディアだ)。
 そしてその窃視的立場から行なっていた認識が、誤ったものであったという事実が物語における「掴み」として機能している。主人公と同じ物を見ていた観客にとって、主人公が犯した過ちは他人事ではなくなるだろう。
 映画の中で主人公は、尾行による窃視的立場から事態の真相に迫ろうとするが、対象との距離に伴う「音の不在」によって事態の全貌をつかむまでには至らない。主人公の同僚による盗撮や、窓(=スクリーン内スクリーン)からの「のぞき」においても、「音の不在」による真相からの阻害は繰り返される。繰り返される窃視的状況とそれに伴う「音の不在」は、まるでメディアとしての無声映画を象徴しているかのようである。(「窓」はしばしば映画内においてスクリーンのメタファーとして機能する。)
 ならば、映画が音を獲得したように、「音の不在」を埋める、対象との接近によって、主人公=観客が物語の真相にたどり着くことが期待されるのはほとんど必然的なことだろう。そしてその期待はあるレベルでは裏切られることはない。主人公は陰謀の中に身を投じることで、文字通り真相に「迫って」いくのだから。
 しかし、ラストシーンにおいて事態は一変する。この映画の結末を衝撃的なもの足らしめている決定的な出来事は、カメラの奥に映る深い闇の中で生じ、主人公=観客はそれを目視することができない。その出来事は、闇を切り裂くかのような車のクラクションを通じてかろうじて認識することができるもので、主人公=観客は窃視的な立場から最も離れた位置にいるにも関わらず、そこで起きた出来事を知ることになるのだ。
 この映画は、連続写真から無声映画、そしてトーキー、と、映画というメディアの発展をなぞるかのような描写とともに結末に向かってきた。だからこそ、(視認することができない)闇の中で起きた出来事が「音」によって主人公=観客に伝わるラストシーンが皮肉なものとして強調される。
 この結末は、言ってみれば極めて「非映画的」であり、だからこそ、アイロニカルな含みをもって観客の脳裏に残り続けるのだ。そこでは最早、主人公=観客は事態を傍観することすら許されていない。
 この結末において、すべてを飲み込んでしまうかのようなチャイナタウンの闇は、映画史における「闇」であるフィルム・ノワールの創始者の一人であるジョン・ヒューストンを象徴するものに他ならない。その意味で、彼の存在は観客にとって二重に印象的なものとなるだろう。


[1] 村上春樹/川本三郎『映画をめぐる冒険』講談社、1985年、152頁

[2] Ibid.,152