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藤城孝輔 『メトロポリス』ーまったく違う映画を見ていたー

藤城 孝輔 (岡山理科大学・講師)

 『メトロポリス』(フリッツ・ラング監督、1927年)は、村上春樹と川本三郎の共著『映画をめぐる冒険』(1985年)で最初にとりあげられる作品である。1920年代からの唯一のエントリーであり、そして本書のなかで唯一のサイレント映画である。また1926年と記述されているが、公開は1927年である。村上は「誰か気のきいた新作無声映画を作ってくれないものだろうか?」という訴えで短評をしめているが[1]、そんな言葉とは裏腹に本書におけるサイレント映画の扱いはきわめてぞんざいである。VHSで流通していた作品を論じた映画本とはいえ、リュミエール兄弟やメリエス、D・W・グリフィスやルイ・フイヤードはおろか、チャップリンやバスター・キートンさえいないなんて! 『メトロポリス』の内容はそっちのけでBGMの話しかしない村上は、本当に映画を見たのかさえ疑わしくなるほどだ。
 『メトロポリス』が本書で例外的にとりあげられているのは、文中でも言及されている音楽家のジョルジオ・モロダーによるリバイバル版が前年の1984年に再公開されたことが大きい。「最近になってジョルジオ・モロダーが音楽をつけたヴァージョンが話題を呼んだが、僕としてはオリジナルのサイレント版に自分で勝手にBGMをつける方が気に入っている。ふしぎにどんな音楽を流してもサマになってしまう。バルトークでもマーラーでもMJQでもプリンスでも、それ風になんとなく決まるところがおかしい」と村上は語る[2]
 村上の言っていることは、あながち間違いではない。実際、クイーンの “Radio Ga Ga”(デヴィッド・マレット監督、1984年)のミュージック・ビデオでは『メトロポリス』の映像が使用され、ピンク・フロイドの “Another Brick in the Wall”(アラン・パーカー監督、1982年)では管理主義教育を表すために『メトロポリス』の労働者の行進シーンが再現され、マドンナの“Express Yourself”(デヴィッド・フィンチャー監督、1989年)では本作を踏襲した未来都市が舞台となるとともに、映画のエピグラム「頭脳と手の調停者となるのは心でなければならない」をもじった文言が表示される。1980年代当時、『メトロポリス』はポップ・カルチャーのイコンとしてサイレント映画としては例外的な再評価を受けていたといえる。
 しかし、サイレント映画だからといって、本作の「オリジナルのサイレント版」に音がなかったわけではない。『メトロポリス』には、ゴットフリート・フッペルツによるオリジナルの音楽がつけられていた。主要な登場人物ごとにテーマ曲がつけられ、労働者の蜂起のシーンでは「ラ・マルセイエーズ」、死や黙示録を連想させるシーンではグレゴリオ聖歌の「怒りの日」が引用されるなど、シーンごとの雰囲気の演出に不可欠な要素となっている。ストーリーテリングの面でも、主人公のフレーダーが工場で目撃した爆発事故を報告するシーンでは爆発事故のときと同じ音楽が挿入され、セリフの内容が推測できるようになっている。このように作品の一部となっているオリジナル音楽をさしおいて別の音楽とあわせるのは、今となってはいささか抵抗を感じる行為かもしれない。しかしフッペルツのオリジナル音楽がつけられた版が普及したのは21世紀に入ってからのことであり、当時の村上にはアクセスできないものであった。
 また、作品の長さについても、村上が見ていた映像と現在見られるものでは大幅な違いがある。私の手もとにあるユリイカ社の英国版DVDは2001年の復元にもとづくものであり、118分の長さがある。さらに2008年にアルゼンチンで16ミリフィルムが発見され、現在は封切時の153分のうち148分まで復元された版がブルーレイで普及している。本書で「83分」と書かれているのはジョルジオ・モロダー版にもとづくものだろうが、村上が「オリジナルのサイレント版」と考えて見ていた版はさらに短いものだったと推測できる。過去の認識の限界を後世の立場から指摘するのはあまりにも安直だが、よりオリジナルに近い今日の版を見れば、村上はもっと違った感想を抱くかもしれないと思わずにはいられない。
 さて、村上が文中で一切言及していない映画の内容に目をむけることにしよう。新時代のバベルの塔たる高層ビルが地上高くそびえる一方、地下深くで生活する無数の労働者たちが都市機能を支えるディストピアを舞台とする本作の軸となっているのは、労働者と資本家、人間とロボット、秩序と混沌といった二項対立である。そのなかも特にきわだつのは、女性性を聖母と毒婦という二面性で描いている点だ。映画のヒロインである純粋で高潔な女性マリアは、メトロポリスの地下に住む労働者に平和を説く。当然ながら、彼女の名前は聖母マリアを意識してつけられている。他方、フレーダーの死んだ母親をモデルに作られたものの劇中でマリアと同じ外見を与えられるロボット(ブリギッテ・ヘルムが二役で演じている)は蠱惑的な悪女であり、労働者を破壊活動に煽動する。マリアが伝統的価値観における理想的な女性像を体現しているのに対し、ロボットのマリアは人々に能弁をふるうセクシーな美女を悪として描いたものである。
 それがよくわかるのが、フレーダーが見る幻覚のシーンである。マリアに一目ぼれしたフレーダーは、資本家である父親のフレーダーセンとロボットのマリアが一緒にいる場面を目にし、オイディプス・コンプレックス的な葛藤に陥って幻覚を見はじめる。寝込んだフレーダーが寝室で見る幻覚と、日本の花街にちなんで名づけられた「ヨシワラ」と呼ばれるナイトクラブでのロボットの官能的なダンスが、クロスカッティングで織り交ぜられる。エロティックに肢体を動かすロボットのショットは、ナイトクラブの男性客たちの視点から撮られ、彼女を欲望の対象とする男のまなざしを前景化させる。それをさらにきわだたせるかのように、このシーンには性的に興奮した客の顔のクロースアップや、画面いっぱいに目で埋め尽くされたコラージュのようなショットが見受けられる。ロボットが踊るステージの背後の壁には眼球のような円の模様が描かれ、客たちの興奮が最高潮に達した瞬間、空気ダクトから蒸気が鋭く噴き出すショットが射精を象徴するかのように挿入される。こうして映画はロボットのマリアを男性に視線の快楽を提供する刺激的な性として位置づける。
 一方、フレーダーの見る幻覚では、聖書への言及を通して、ヨシワラで踊るロボットの性が罪深いものであることが示唆される。フレーダーは、日中に大聖堂で目にした死神と七つの大罪の像が生き返るのを目にする。それに続くのは、ヨシワラのステージで七つの頭を持つ怪物の戦車に立つロボットのショットで、ここで彼女は「ヨハネの黙示録」に登場する性的堕落の象徴であるバビロンの娼婦に見立てられる。148分版ではフレーダーセンの部下が聖職者に扮し、講壇に立って黙示録の到来を告げる。そして黙示録でらっぱを吹く七人の天使を彷彿とさせるかのように、マリアの乗った戦車を支えていた黒人奴隷は七つの大罪の像に入れ替わる。フレーダーの幻覚は、こうして世界の終末を描く黙示録のヴィジョンと一体となる。このシーンでは、キリスト教において善と悪、羊と山羊を峻別する二項対立をあてはめることで、人間と無生物の境界を侵犯するロボットと像たちをその二項対立をおびやかす危険な存在として描きだす。人間のような見た目だが心をもたない悪のロボットや、大がまを振りかざす死神の像はフレーダーに去勢の脅威を突きつけるものだ。
 第一次世界大戦後に急速な近代化を経たドイツでは、1919年に成立したワイマール憲法によって婦人参政権が保障され、労働条件や言論の自由の面において女性の地位は向上した。テクノロジーの発達により、女性のライフスタイルも劇的な変化をとげた。機械化によって工場労働は男性の体力を必要しなくなり、大戦中まではぜいたく品だった掃除機などの家電製品の台頭で家事負担が減ったことで、女性が家庭を出て社会に進出できるようになった。第一次世界大戦での兵士への配布が契機となった避妊具の普及は、職場での生産性を維持しつつ、性的にもアクティヴであり続ける女性を一般的なものにした。
 以上のような社会における女性の活躍は、男性の支配的な地位を揺るがす不安や女性嫌悪へと結びついただろう。『メトロポリス』は、男性が自分の創造物たる女性を制御できなくなる物語である。マッド・サイエンティストのロトワングがロボットのマリアを作った当初の目的は、フレーダーの亡き母であり、彼がかつて思いをよせた相手であるヘルを人工的に復活させて性的欲望を満たすことだった。しかし、ロボット開発の過程で失われたロトワングの右手は、男性の性的充足をおびやかす去勢のメタファーである。ロボットに人間のマリアの姿が与えられるシーンでは、実験室で激しく光を放つ機械の運動がそれを制御しているはずのロトワングの動きを凌駕する。ほどなくロボットは制御不能となり、フレーダーの父親が支配するメトロポリスに危機をもたらす。
 邪悪なロボットのマリアとは対照的に、本物のマリアは母性が強調される。「マリア」という名前はもちろんのこと、子どもたちを引き連れてフレーダーの前に登場する序盤のシーンや、労働者の街の子どもたちを洪水から救うシーンでも、子どもたちの庇護者の役割が与えられる。ロトワングが当初ヘルをモデルにロボットのマリアを設計したように、フレーダーにとってもマリアは恋人であると同時に母親の身代わりなのだ。
 しかし、地下で労働者たちに「頭脳と手の調停者」となる「心」の到来を予言するマリアは、実のところ無垢なる聖母とはほど遠い不穏さをもちあわせている。本作では、フレーダーの父親をはじめとするブルジョワ階級が「頭脳」、労働者が「手」として位置づけられる。「心」を体現するフレーダーとマリアが「頭脳」と「手」を和解させるとき、国家を一つの身体と同一視する全体主義の思想が垣間見える。もちろん、その国家の身体=国体からは高齢者や障がい者は完全に排除されており、地上のメトロポリスにも地下の労働者の街にも生産性に寄与しないマイノリティーは皆無である。労働者の街に住むのが労働力となる成人男女と子どもだけということは、労働者階級である「手」が現在と将来の利用価値でしか存在意義を認められていないということだ。
 これに対し、メトロポリスの「頭脳」であるフレーダーの父親は、ロトワングの作ったロボットのマリアを労働者の煽動に利用して彼らを破滅させようとした責任を一切問われない。「頭脳」なしでは国家という身体は生存できないため、どんな残虐行為を犯しても逃げおおせることができる。ジークフリート・クラカウアーはロボットでないほうのマリアが労働者に語りかける言葉をヨーゼフ・ゲッベルスのプロパガンダと結びつけ、本作にナチス思想の萌芽を見出したが、それももっともな話である[3]
 映画が伝える「頭脳と手の調停者となるのは心でなければならない」というメッセージにナチス全体主義のプロトタイプを見出すとき、それを妨げようとする悪のロボットに対してはまったく異なる評価が可能になるだろう。邪悪なロボットによってそそのかされた労働者の反乱がもたらすメトロポリスの混乱は、国体の統一を害し、子どもたちの生命を危険にさらす愚行として片づけられる。だが、彼らの反乱は、それまでの奴隷的な労働条件を考えれば十分に正当化できるものだ。映画の最後にフレーダーが労働者と父親の感傷的な和解をお膳立てしたところで、労働条件が改善される保証はまったくない。だとすれば、悪のロボットであるマリアは反革命主義者によって不当に歪曲された革命家の姿だったのではないか? 彼女が労働者たちの手で火あぶりにされる姿は、仕えた王に裏切られて異端者として処刑されたジャンヌ・ダルクを連想させる。民衆を行動に駆り立てるカリスマ的な力をもつロボットのマリアは、本物のマリアよりも強烈な印象を残している。
 異なる時代のコンテクストにあてはめることで、映画は違う意味をもつことがある。毒婦として意図されたはずのロボットのマリアは、ジャンヌ・ダルクにだってなりうるだろう。デヴィッド・フィンチャーがマドンナのミュージック・ビデオで『メトロポリス』を意識させる演出を行ったのも、ロボットのマリアが体現する女性の力強さをマドンナのスター・イメージに投影するためではなかったか。それ以前に、本作の場合は映画のテクスト自体が時代によってまったく異なっている。村上が見た『メトロポリス』は、私が見た『メトロポリス』より1時間以上も短く、音楽も異なっている。それに、修復技術が発達していない時代にVHSで見る映像は、現在ブルーレイで普及しているレストア版よりも、映像を通して見えるものは異なるだろう。私と村上は、まったく違う映画を見ていたのかもしれない。


[1] 村上春樹/川本三郎『映画をめぐる冒険』講談社、1985年、14頁。

[2] 同上。

[3] ジークフリート・クラカウアー『カリガリからヒトラーへ ドイツ映画1918-1933における集団心理の構造分析』丸尾定訳、みすず書房、1970年、168頁。