コンテンツへスキップ

【コラム】『映画をめぐる冒険』

【コラム】『映画をめぐる冒険』

  • 國永孟「スターの存在と、映画のスタイルー『若草の頃』(1944年)における演出ー」
    2022年10月21日
    國永 孟(京都大学大学院人間・環境学研究科 博士課程 キングス・カレッジ・ロンドン大学)  黄金期のハリウッド映画を語る際にしばしば耳にする言葉に「スター・ヴィークル」というのがある。これは1930年代から40年代にかけて、メジャー・スタジオが自社で契約しているスターの人気を最大限に利用するため、小説や戯曲を映画化する権利を購入し、スターのイメージに沿うように脚本を練り上げたりする映画のことを指す。「スター・ヴィークル」として製作された映画は、物語だけでなく、カメラの前に映るすべてのものがスターの存在感を高めるために演出されていると言っても過言ではない。 1944年、メジャー・スタジオのひとつ…
    Continue reading »
  • 池田真実子「「おかしな」モーツァルト―映画『アマデウス』のモーツァルト像とその行方―」
    2022年10月7日
    池田真実子(京都大学大学院人間・環境学研究科 博士課程) 「天才」と聞いて、どのような人物が思い浮かぶだろうか。一つのことに異常なほどに秀でていて、それまでの価値観など吹き飛ばしてしまうような人物。それでいて、それ以外のこと、社会的営みや私生活はめちゃくちゃで、時代にうまく適合できなくて——。このような天才像を具現しているのが、映画『アマデウス』に出てくるモーツァルトである。 簡単にこの映画の基本情報をおさえておこう。映画『アマデウス』は、ミロス・フォアマンが監督した、1984年のアメリカ映画である。原作は、ピーター・シェーファーの同名の戯曲であり、シェーファーはこの映画の脚本にも携わっている…
    Continue reading »
  • 神田育也「ヴィスコンティは二度死ぬ—『ルートヴィヒ 神々の黄昏』解説」
    2022年10月3日
    神田育也 (京都大学大学院 人間・環境学研究科 博士2回生)  『ルートヴィヒ 神々の黄昏』について村上春樹は「ルキノ・ヴィスコンティの遺作である」[1]と述べているが、これは全くの事実誤認である。ヴィスコンティの遺作は『イノセント』であって、『ルートヴィヒ』ではない。バイエルンの歴史大作『ルートヴィヒ』とローマの愛憎劇『イノセント』ではかなりの隔たりがあり、ましてヴィスコンティは『ルーヴトヴィヒ』の後に、『家族の肖像』も撮影している。 一体なぜこのようなミスを村上春樹はしたのだろうか。以下では「単純な勘違い」に過ぎないであろうこの問題を、あえて「過大評価」し、『ルートヴィヒ』のコンテクストか…
    Continue reading »
  • 神田育也「「上手な」映画、『ジョーズ』の解説 ―撮影技術、コンティニュイティ編集、ナレーションの観点から―」
    2022年8月22日
    はじめに  『ジョーズ』(1975)はスティーヴン・スピルバーグの劇場公開第2作にして、それまでの商業映画の常識を根底から覆した作品である。ホオジロザメが人を食い殺す。「一文で要約して売る」ことができる「ハイ・コンセプト」[1]なストーリーは、あらゆる観客層の心を鷲掴みにし、『イージー・ライダー』『真夜中のカーボーイ』に熱狂したヒッピーから『エクソシスト』『悪魔のいけにえ』に惚れ込んだホラーマニア、『タワーリング・インフェルノ』『エアポート'75』を気軽に楽しんだ家族連れまで、全米をサメの虜にさせた。 封切り後、僅か2週間で製作費を回収した『ジョーズ』は、歴代興行収入1位だった『ゴッド・ファー…
    Continue reading »