歴代主任教授
歴代主任教授 | ||
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初代 | 浅山吾三 教授 | 1947年11月~1950年2月 |
2代 | 大石省三 教授 | 1950年3月~1968年6月 |
3代 | 小林俊策 教授 | 1968年12月~1987年3月 |
4代 | 栗本晋二 教授 | 1987年8月~1993年3月 |
5代 | 西田輝夫 教授 | 1993年10月~2010年3月 |
6代 | 園田康平 教授 | 2010年10月~2015年9月 |
7代 | 木村和博 教授 | 2016年11月~ |
浅山吾三教授の時代(1947年11月~1950年2月)
山口県立医学専門学校は昭和19年,第2次世界大戦の最中,軍医養成を目的に,沖の山同仁病院を母体として設立された.山口県立医専の設立にともない,小泊重比子先生により第1回生の眼科学講義が開始された.その後,昭和22年5月に浅山吾三先生が講師として眼科に着任され,小泊先生を引き継がれた.
昭和23年11月に山口県立医学専門学校眼科学教授に昇任され,学生の指導と診療をおこなわれた.山口大学医学部眼科学教室の歴史はここから始まったといえる.眼科学の講義および臨床指導が学生対象に行われていたが,戦後まもなく,卒後教育や研究活動ということは考えられなかった時代である.
その後,山口県立医専を基礎として,山口県立医科大学が設置された.
大石省三教授の時代(1950年3月~1968年6月)
山口県立医科大学が設立されるに伴い,昭和25年3月に大石省三先生が第2代教授に就任された.大石教授は昭和10年に満州医科大学を卒業され,終戦まで満州医科大学眼科学助教授として活躍されていた.
大石教授が山口県立医科大学眼科学に着任されたときは,まだ戦後の混乱期であった.充分な設備の整わない環境で眼科診療が開始され,その後の山口大学医学部眼科学教室創建と,眼科臨床の基盤づくりに尽力された.
研究では,当時失明の最大の原因であったトラコーマを,研究テーマの軸とされた.この研究は,さらにアデノウイルスによる角結膜炎やワクチニア眼症やレプトスピラ眼症の研究へと展開され,眼感染症に関する多くの研究業績を残された.
大石教授の臨床活動は,附属病院内にとどまらず,山口県各地へ出向いて身体障害者の検診やトラコーマなどの眼疾患の診療を行われた.
小林俊策教授の時代(1968年12月~1987年3月)
昭和43年12月,大石省三教授の後任として,当時の助教授であった小林俊策先生が第3代教授に就任された.
小林教授は昭和21年に満州医科大学を卒業され,その後九州大学医学部眼科学教室で研鑽を積まれた.昭和29年に講師として山口県立医科大学眼科学教室に着任され,昭和30年からは助教授として活躍された.
小林教授は,ヘルペスウイルスによる角膜感染症をテーマに研究に取り組まれ,治療法の研究を重ねられた.大石前教授の時代においても,眼感染症について多くの研究を主導され,当時からたくさんの医師や研究者が薫陶を受けた.小林教授の指導者としての情熱と才覚が,眼科学教室をさらに発展させた.
栗本晋二教授の時代(1987年8月~1993年3月)
昭和62年8月,小林俊策教授の後任として,当時産業医科大学眼科学教授であった栗本晋二先生が山口大学医学部眼科学教室第4代教授として就任された.
栗本教授は昭和30年山口県立医科大学を卒業後,鳥取大学医学部眼科学教室で研鑽を積まれ,昭和36年からシカゴ大学眼研究所に留学された.帰国後は,鳥取大学助教授に就任されたのち,北九州市立小倉病院部長を経て,昭和53年に産業医科大学眼科学教室初代教授となられた.
栗本教授は,糖尿病網膜症や中心性網膜症,緑内障など多岐にわたる分野で研究に取り組まれた.産業医学の分野では,コンピューターが多く用いられる時代の到来を予想され,OA従事者のVideo Displayによる眼精疲労の研究にも尽力された.
西田輝夫教授の時代(1993年10月~2010年3月)
平成5年10月,栗本教授の後任として,西田輝夫先生が第5代教授として就任された.西田教授は昭和46年に大阪大学医学部を卒業し,大阪大学蛋白質研究所で研究されたのち,スケペンス眼研究所(SERI)に留学された.帰国後,大阪大学医学部眼科学教室で研鑽を積んだ後,近畿大学医学部眼科学教室の講師を務められた.
西田教授は,長年にわたって角膜上皮創傷治癒の研究に尽力され,フィブロネクチンの角膜上皮の創傷治癒促進効果に関する研究は世界的に有名であった.教授在任中は,角膜上皮の創傷治癒に関する研究をさらに展開させ,角膜上皮における神経性因子の生理作用の研究成果は,第109回日本眼科学会総会において「神経麻痺性角膜症(Neurotrophic Keratopathy)角膜知覚の臨床的意義に関する細胞生物学的研究」として宿題報告(現評議員会指名講演)するに至った.この研究で明らかとなった角膜上皮促進作用を有する神経伝達物質サブスタンスPおよびインスリン様成長因子-1の協調作用は,それぞれの物質の最小必須単位(FGLM-NH2およびSSSR)を明らかとし,さらに,角膜上皮促進作用を有するフィブロネクチン由来のペプチドPHSRNの作用も明らかにしたことで,臨床研究が行われ,現在も本学における難治性角膜上皮障害治療の要となっている.
また,教室の学術的発展にも尽力され,多くの業績を残された.2001年には世界で最も優秀な角膜研究者に贈られるCastroviejo Award(The Castroviejo Society)を受賞した.これは日本人として当時2人目の快挙であった.その他にも,国内外から多数の賞を受賞しただけでなく,在職中に多くの国内・国際学会も主催された.退任記念の山口国際シンポジウムには,世界から8名のCastroviejo Award 受賞者の参加があったことも,西田教授の功績の大きさと厚い人望が伺える.
退任後は山口大学副学長として大学全体の運営に携わり,さらに広い視点から多くの研究者の研究を支えられた.
園田康平教授の時代(2010年10月~2015年9月)
平成22年10月,西田教授の後任として,園田康平先生が第6代教授に就任された.園田先生は平成3年に九州大学を卒業し九州大学眼科学教室で臨床と研究に励まれたのち,ハーバード大学スケペンス眼研究所(SERI)に留学された.帰国後は九州大学大学院医学研究院眼科学教室で助手,講師,准教授を歴任された.
園田教授は,ぶどう膜,網膜硝子体分野を中心に多くの研究業績を残しており,第111回日本眼科学会総会における宿題報告(現評議員会指名講演)では「眼の感染と免疫」として,ぶどう膜炎および脈絡膜新生血管病における炎症性サイトカインの役割とその治療戦略への応用を報告された.網膜硝子体疾患の診療・研究にも尽力されており,鹿児島大学 坂本泰治先生との研究であるトリアムシノロンを用いた硝子体手術は,現在も世界で広く用いられる手法である.
園田教授は,人材育成にも尽力された.ロンドン大学,ハーバード大学などへ医局員の留学を進めるとともに,海外からの留学生を積極的に受け入れた.活発な人的交流による相乗効果は,多くの研究成果をもたらした.
新しい診療体制,研究体制を確立しつつあった平成27年9月,母校である九州大学大学院医学研究院眼科学教授に就任され,第6代教授を退任となった.