維新十傑に挙げられる大村益次郎が生まれ育ち、永眠する場所です。大村先生は鋳銭司の村医の子として生まれ、梅田幽斎(防府)、広瀬淡窓(日田・咸宜園)、緒方洪庵(大阪・適塾)に学びました。適塾は多くの人材を輩出しますが、大村先生はそこで塾頭を務め、蘭学の実力は師の洪庵を凌ぐほどだったといわれています。
生誕地に建立する石碑
帰郷後、鋳銭司で村医を継ぎますが、先に他藩である宇和島藩や江戸幕府がその卓越した能力に目を付け、大村先生を召し抱えます。その後、桂小五郎に見出された大村先生は、正式に長州藩士として迎えられ、長州征討(四境戦争)や戊辰戦争で大きな活躍を見せます。
鋳銭司郷土館、右は大村益次郎のレリーフ
館内に展示の銅像、同じものが靖国神社(東京)に建てられています
ここ鋳銭司には、大村先生の遺品等が数多く展示された鋳銭司郷土館のほか、生誕地を示す石碑や墓所があります。また、大村先生が鋳銭司から山口藩庁(現在の山口県庁)まで通勤した山道は「大村益次郎の道」として現在も残されています。
「大村益次郎を偲ぶ会」みんなで大村益次郎の道を歩きました